『「社会問題の核心」を読む』《後編》
著:高橋巖
皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。
本日は、高橋巌氏の著書『社会問題の核心を読む』を解説する講義の後編、第3回目となります。
『『社会問題の核心』を読む』著:高橋巖版元:春秋社(2024年)
【目次】
第一講 私たちが変わると社会が変わる
第二講 グローバリゼーションの行方
第三講 現代人の精神生活
第四講 神智学と社会問題
第五講 社会の根底にある日本文化第六講 日常生活の精神化
孤独と共同体
あとがき
この著書は、ルドルフ・シュタイナーの主著の一つ『社会問題の核心』を読み解くものですが、今回はその後編にあたる部分、特に現代社会への応用について解説していきます。テーマは大きく分けて以下の3つです。
1つ目は、シュタイナー思想の基盤である神智学が、社会問題とどのように関わるのか。
2つ目は、日本社会の根底にある歴史的な力に着目し、日本における社会問題をどう捉えるべきか。
そして3つ目は、私たちの日常生活において、精神生活がどのような役割を果たすべきかについてです。
神智学と社会問題
まず高橋氏は、『社会問題の核心』の本論から少し視野を広げ、シュタイナーの論考「神智学と社会問題」を紹介されています。シュタイナーの社会思想を理解する上で、彼の人間観の背景にある神智学(Theosophy)との関わりは重要です。
神智学は、19世紀後半にブラヴァツキー夫人とオルコット大佐らが中心となって提唱した精神運動です。1875年にニューヨークで神智学協会が設立され、広範な影響力を持ちました。その目的は、古代の叡智を探求し、あらゆる宗教や哲学に共通する普遍的な真理を見出そうとすることでした。いわば、メタ宗教的な思想運動と言えます。シュタイナーもこの運動に深く関わりましたが、後に独自の「人智学(Anthroposophy)」を展開しました。
人間の多層構造(身体・魂・霊)
神智学、そして人智学の人間観の特徴は、人間を単なる物質的な存在として捉えない点にあります。高橋氏が指摘するように、シュタイナーは一般的な心身二元論(身体と精神を分けて考える見方)とは異なり、人間が「身体・魂・霊」の三つの層から成る多層的な存在であると考えました。
少し詳しく見ていきましょう。まず、人間の存在基盤として物質的な「身体」の次元があります。しかし、物質だけでは生命は宿りません。この身体を生かしているものとして、シュタイナーは「エーテル体(生命体)」を想定しました。これが宿ることで初めて身体に命が与えられます。
次に、「魂」の次元があります。これはいわゆる感情や思考といった内面的な体験の世界です。この意識体験において重要な役割を果たすのが「アストラル体(感情体・意識体)」です。
そして、さらに高次の層として「霊(スピリット)」の次元があります。ここがシュタイナー思想の核心であり、人間固有の本質、すなわち「自我」が存在する次元です。この自我は霊的な存在であり、自我が霊的に進化していくことが、人智学の大きな目的の一つです。
社会問題への視座
この「身体・魂・霊」という人間観を前提にすると、社会問題へのアプローチも変わってきます。つまり、単に経済的・物質的な問題を解決すれば人間が幸せになるわけではない、ということです。人間の内面(魂)や本質(霊)に関わる問題をも解決しなければ、真の意味で社会問題は解決しません。人間観と社会問題は不可分に結びついています。
また、神智学的な視座に立てば、個人の問題は、より大きな宇宙的な進化の課題とリンクしていると考えます。私たちは、個人的な問題を通じて宇宙の課題にも向き合っているという、大きな視野をもって社会問題に取り組む必要があります。
社会の法則と日本社会への視座
では、こうした人間観に基づいた社会は、どのような法則に従うべきでしょうか。シュタイナーは、私たちは利己主義を克服し、分かち合い(利他主義)、そして相互扶助・相互信頼に基づいた関係を築くことが重要であると説きます。さらに、こうした原理が機能する社会制度を構築していくことが、私たちに課せられたテーマです。
利己主義の克服:労働と賃金の分離
利己主義の克服とは、具体的に何を意味するのでしょうか。例えば、私的な財産を増やすことだけが目的化してしまう状態は、現代の行き過ぎた営利主義の根底にある利己主義の表れです。これに対抗するため、シュタイナーは「労働と賃金の分離」を一貫して唱えました。
シュタイナーにとって、労働とは本来、賃金を得るための手段ではなく、この世における精神的な行為(他者への貢献)です。その精神的行為としての労働と、生活の糧を得るという経済的問題を切り離さなければなりません。もし切り離さなければ、精神生活が経済的動機に従属してしまい、精神の自由が損なわれる、というのが彼の議論です。
これは、生活に必要なお金は労働の成果に関係なく、社会が人々に分配するという、ベーシックインカム的な考え方につながります。これにより、私たちは経済的な動機(利己主義)から解放され、真に自由な労働が可能になるとシュタイナーは考えました。
相互信頼と社会有機体
もう一つの重要な側面は「相互信頼」です。私たちは他者の労働によって生かされています。高橋氏はこれを、自給経済ではなく、他者から供給されている経済という意味で「他給経済」と巧みに表現しています。
分業は本来、相互信頼に基づいて行われるべきものです。私自身も染織の仕事をしていますが、糸、染料、機(はた)の準備など、全てを自分一人で行うことはできません。この世に生きるということは、他者との分業の中で、そして自然界の恵みの中で生かされているということです。
分業の本質を理解するためには、社会全体を一つの有機体(生き物)として捉える視点が不可欠です。社会はまず有機的なつながりを持った生き物として存在し、自分自身はその生命活動を司る一部(例えば目や手足など)として役割を担っているのです。
自分自身の仕事と、有機体としての社会全体との関係を常に意識する感覚を、シュタイナーは「社会感覚」と呼びました。社会を単なる制度の集合体として捉えるのではなく、生き物として直観することの重要性を、彼は繰り返し説いています。
日本社会の根底:網野善彦の「横の社会」
こうしたシュタイナーの議論を、日本社会の文脈に引き寄せてみるとどうなるでしょうか。ここで高橋氏は、歴史家・網野善彦氏の議論を紹介します。高橋氏は網野氏と夜間学校で同時期に教えていた縁もあり、網野氏の研究から日本の社会構造の根底を考察します。
網野氏の重要な貢献は、日本の中世社会には、権力者と被支配者という「縦社会」だけでなく、水平的な「横の社会」が広範に存在したことを見出した点です。この横の社会で大きな役割を果たしたのが、手工業者、芸能民、宗教者といった、特定の土地に縛られない非定住・非農業民でした。彼らは村落の間を移動し、縦の支配関係とは異なる、自由でネットワーク的な人間関係を築いていたのです。
無縁と公界(アジール)
この自由な横のネットワークの存在から、網野氏は「無縁(むえん)」や「公界(くがい)」という重要な概念を提示します。
「無縁」とは、血縁や地縁、主従関係といった世俗的な束縛から自由になった状態を指します。これは自由である反面、誰からの保護も得られないという側面も併せ持ちます。芸能者や宗教者などは、この無縁の原理で結びついた横の社会で生きていました。
そして、そうした無縁の人々が集まる自由な空間が「公界」です。寺社の境内、市場、河原などは、世俗的な権力が介入できない空間として成立していました。これは「アジール」(聖域・避難所)とも呼ばれます。中世日本にアジールが存在したという事実は、シュタイナーが重視した、国家権力から自律した精神生活の領域とも響き合います。
しかし、江戸時代になり幕藩体制が確立し、支配が隅々まで及ぶようになると、この自由な空間は失われていきます。「公界」が「苦界」(苦しい世界)に変わってしまったとも言われます。支配が行き渡ることで横のつながりは抑圧され、芸能民などの流浪の民は差別の対象となっていきました。
日常生活における精神の役割
中世日本に見られた「アジール」のような伝統は、現代社会において何を意味するのでしょうか。私たちは、現在の社会問題にどう立ち向かうべきでしょうか。ここで「根本思想」が重要になります。
社会問題の本質的な解決のためには、表面的な制度設計だけでなく、その社会や民族が持つ根本思想に立ち戻って考える必要があります。
資本主義と精神生活の乖離
現在、私たちの社会の根底には資本主義があり、経済生活が精神生活や法生活を凌駕しています。シュタイナーは、現代資本主義の最大の問題点は、精神生活と物質生活(経済生活)が完全に切り離されていることだと指摘します。経済生活だけが自己目的化して暴走する中で、「いかにして日常の生活や労働の中に精神的な意味や価値を見出すか」が問われています。
ただし、シュタイナーは重要な注意点も指摘しています。それは、逆に精神生活を経済生活から完全に切り離してしまうのも誤りである、ということです。例えば、瞑想や純粋な思索の中だけで精神生活を完結させ、現実社会から逃避してしまう態度は、シュタイナーの意図するところではありません。
なぜなら、私たちはこの世に生まれ、物質的な存在として生きている以上、経済活動とも関わらざるを得ないからです。物質生活と精神生活を結びつけていくことこそが、私たちの使命であり、真に意味のある精神生活なのだとシュタイナーは言います。
日常生活の精神化と「家」の二重性
では、いかにして精神生活を物質生活の中に結びつけるのか。「日常生活の精神化」が鍵となります。ここで高橋氏は、私たちの日常生活の原点である「家」について興味深い議論を展開しています。
家は通常、私的所有の原点と考えられます。これは、利己主義(エゴイズム)の出発点にもなり得ます。
しかし、先ほどの網野氏の議論に基づけば、家を「無縁の原点」と考える視点もあります。すなわち、家は外部の公権力や世俗的な権力が侵入できない、聖なる空間(アジール)であるという捉え方です。「私の所有物」と考えるか、「不可侵な聖なる空間」と考えるか。この二重性が、私たちの社会意識の基層を形成しています。
シュタイナー自身も、ゲーテアヌム(スイスのドルナッハに建設した人智学運動の拠点施設)を作る際に、「ジプシーのアジールを作りたい」と語っていたそうです。網野氏の言葉で言えば、既存の社会のしがらみから自由になった「無縁」の人々が集う精神活動の拠点です。私たちが共同体を作る際にも、世俗から自由になったアジールという視点は重要になるでしょう。
精神生活の原点
家をアジールとして捉え直したとき、私たちは日常そのものを精神化し得る視座を得ます。抽象的な概念だけで精神生活を語っても、現実を変える力にはなりません。あくまでも現実の経済生活・物質生活と結びつき、社会の健全化に資する精神生活である必要があります。
その原点は、私たち一人ひとりの日常生活を精神的に深めることです。社会全体を変革することは困難でも、自分の日常生活を精神化することは誰にでも可能です。自分の家を聖なる場所と意識することで、実は日常の至るところで、経済生活と精神生活を結びつける実践が可能になるのです。
実践例:ヨベルの年と減価する貨幣
最後に、行き過ぎた資本主義経済に対抗し、精神生活を取り戻すための具体的な実践例として、高橋氏は古代ユダヤの「ヨベルの年(Jubilee)」を紹介しています。
これは、50年目(正確には、7年ごとの安息年を7回繰り返した翌年)に全ての借金が帳消しになり、売買された土地も元に戻るという制度です。このリセットされる年を聖なる年としました。私的所有権が永続化することで富が偏在し、社会階層が固定化してしまうことへの歯止めをかける知恵が、社会にビルトインされていたと考えられます。
この定期的に清算される仕組みを、現代の貨幣システムに応用しようとしたのが、ドイツの経済思想家シルビオ・ゲゼルです。シュタイナーも注目したゲゼルは、時間とともに貨幣価値が減っていく「減価する貨幣」を提唱しました。
通常の貨幣は(インフレを考慮しなければ)価値を保ち続けますが、ゲゼルの貨幣は経年劣化し、価値を失います。そのため、人々はお金を退蔵せず、使って循環させようとします。これは、ヨベルの年の思想と非常に似ています。
つまり、富は無限に蓄積できるものではなく、常に循環し、定期的にリセットされるべきだという考え方です。現代の経済感覚からすると受け入れがたいかもしれませんが、富の「蓄積」から「循環」へと意識を転換させることは、行き過ぎた経済生活に対する有効な処方箋となり得る視点を与えてくれます。
以上、3回にわたって高橋巌氏の『社会問題の核心を読む』を解説してきました。ぜひ、ご自身で原典に当たっていただき、シュタイナーの思想と現代社会のあり方について、さらに思索を深めていただけたら幸いです。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
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