『美の法門』(前編)
柳宗悦(著)
皆さん、こんにちは、アトリエシムラの志村昌司です。今回は、柳宗悦の『美の法門』を扱いたいと思います。全3回の予定です。
【目次】
『美の法門』
『無有好醜の願』
『美の浄土』
『法と美』ほか2編
『美の法門』は、岩波文庫から『新編 美の法門』として出ていますが、現在は品切れになっているかもしれません。もう一つ、ちくま学芸文庫から刊行されている『柳宗悦コレクション 3 こころ』(日本民藝館監修)にも、岩波文庫とほぼ同じ内容の論考が収録されています。こちらは比較的入手しやすいでしょう。
なお、岩波文庫版(新編)には、編者である水尾比呂志氏の素晴らしい解説が付いています。水尾氏の解説を読みたいという方は、岩波文庫を探していただけるとよいかと思います。
柳宗悦、民藝理論から仏教美学へ
この『美の法門』は、柳宗悦の思想の展開において重要な位置を占める書物です。柳が民藝運動を開始し、日本の様々な民藝品を発見し、それらに言葉を与えていった「前期」の活動。その後に続く「後期」の思想は、それまで築き上げてきた民藝理論を、さらに宗教的な次元、信仰の基盤から裏付けようとした試みと言えます。
柳はもともと宗教哲学の研究から出発した人であり、宗教の問題と美の思想を統合させたいという想いが、常にあったのでしょう。それが戦後、晩年になって特に仏教の浄土思想(特に他力思想)に着目することにつながりました。こうして打ち立てられた独自の美論は「後期の仏教美学」とも呼ばれ、その出発点となる中心的な書物が、この『美の法門』なのです。
仏教美学「四部作」とは
今日は、この柳の仏教美学について概観していきます。柳宗悦の仏教美学は、一般的に「四部作」と呼ばれる、以下の4つの主要な論考によってまとめられています。
『美の法門』(1949年)
『無有好醜の願』(1957年)
『美の浄土』(1960年)
『法と美』(1961年)
内容は重複する部分も多いのですが、徐々に思索が深められていることがわかります。柳宗悦は1961年に亡くなっていますから、『法と美』は文字通り最晩年の論文ということになります。
1. 『美の法門』— 啓示による誕生
まず四部作の最初、『美の法門』ですが、これには劇的な成立エピソードがあります。1948年の夏、富山県の浄土真宗の寺院、城端別院(じょうはなべついん)に滞在していた柳が、『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』を読み直していたところ、その「第四願」の箇所で啓示のようなものを受けました。そして、そこから一気に『美の法門』という論考を書き上げたとされています。(この第四願については後ほど詳しくお話しします)
いずれにしても、柳の内部で蓄積されてきた思想が、『大無量寿経』との再会によって一気に花開いたと言えます。柳がここで展開したのは、従来の民藝理論の根拠を仏典に求め、私たち民衆の生み出す美が、実は仏の「慈悲」によってもともと成就されているのだ、という思想でした。
ここでいう仏の「慈悲」とは、単なる慈しみや同情心ではありません。むしろ、仏が衆生(しゅじょう=生きとし生けるもの)を救済しようとする「積極的な意志」を指します。仏は普遍的な救済の意志を持っており、その意志はすでに成就されている、ということが大前提となっています。
ここから柳は、「美と信(信仰)は同じである」、つまり美の理論と信仰(宗教的真理)は同じであるという「美信一如(びしんいちにょ)」の重要な考え方を説いていくことになります。
『美の法門』の「法門」とは、もともと「仏の教え(法)の入り口(門)」を意味します。つまり『美の法門』とは「美についての仏の教え」といった意味合いであり、まさに内容にふさわしいタイトルです。
この『美の法門』を発表した記念講演が京都でありました。その発表が終わると同時に、当時45歳だった版画家の棟方志功が柳に走り寄り、泣いて喜んだというエピソードが残っているほど、この論考は当時の民藝運動の同人たちに大きな影響を与えました。これが、柳の仏教美学の記念すべきスタートとなります。
2. 『無有好醜の願』— 美醜を超える「不二の美」
『美の法門』に続いて、1957年に『無有好醜の願』が発表されます。これは、先ほど触れた『大無量寿経』の第四願、すなわち「無有好醜の願(好い、醜いという差別が無いという願い)」の内容をさらに深く追求したものです。
柳はこの願に基づき、美とは何かを改めて問います。そして、美とは本来「美醜未分(びしゅうみぶん)」の状態、すなわち美と醜という二元論的な対立が生まれる以前の根源的な状態であると説きます。この世における美とは、その根源的な状態を映し取ったものだというのです。
この美醜が未だ分かれていない状態を、柳は「不二(ふに)の美」とも呼びます。「二つにあらず」と書くように、美しいと醜いが分かれる以前の状態、あるいはそれら二元論を超越した絶対的な美を指します。ちなみに志村ふくみの『不二』という作品がありますが、それはこの柳の仏教美学を前提としたタイトルです。
このように、美醜を超えた状態こそが真の美である、という考え方は、ある種の「美の根源」を示すものとなります。美しさとは特定の才能ある人が生み出す特別なものではなく、私たちが本来のあるがままの姿(他力)に立ち戻れば、誰でも美に触れうる。だからこそ、名もなき民衆が美を生み出しうるのだ、という民藝の論理につながっていきます。こうした議論を経典に基づいて深めたのが『無有好醜の願』です。
3. 『美の浄土』— あらゆる存在が肯定される世界
次に、1960年に発表された『美の浄土』です。これは、美の浄土とはいかなる状態であり、現世と浄土の関係はどうあるべきかを論じたものです。
柳はこの論考で、「美の浄土」を、あらゆる差別、区別、対立が超越された世界として描きました。それは「あるがままの姿」(真如)であり、究極的にはあらゆる存在が肯定されている状態です。個々の違いや個性がそのまま肯定され、固有の美しさとして認められる世界。これを柳は「複合美の世界」とも表現しますが、様々な美しさが対立せず共存できる世界こそが「美の浄土」なのです。
そして、その具体的な現れが、他力によって生まれた民藝の品々である、と柳は考えます。柳の議論の重要な点は、それが観念論に留まらず、実際に「民藝運動」という形で実践され、さらに「美の浄土」を具体的な生活と結びつけて考えようとした点にあります。思想と実践が切り離されていないという点が非常に重要です。
4. 『法と美』— 美と宗教的真理の不可分性
四部作の最後、1961年発表の『法と美』は、様々な経典の言葉を引用し、それをきっかけに美の本質を考えるという構成になっています。ここにおいて、仏法の「法」と「美」が不可分な関係であること、すなわち美と宗教的真理(信)が不可分であること(美信一如)が、改めて仏教の経典を引きながら具体的に論じられています。
さて、ここからは視点を変えて、柳の仏教美学が生まれてきた背景や契機について考えていきます。柳の仏教美学は、単なる個人の信仰表明ではありません。むしろ、柳が生きた「近代」という時代と向き合った一つのマニフェスト、精神的な意見表明であったと考えられます。
近代化によって精神的な価値や手仕事が失われ、便利さや資本主義の発展と引き換えに、人間にとって本質的に大事なものが失われていく。そうした時代に対し、どうすれば私たちは精神的な変容を遂げられるのか。失ったものを取り戻す方法はいかにあるべきか。そうした切実な問いへの一つの応答が、仏教美学だったのです。
背景としては、主に4つの側面が挙げられます。
① 他力と美信一如:近代的自我への警鐘
第一は、「他力」と「美信一如」という視点です。明治以降、日本は西洋と出会い、「近代的な自我」を確立していきます。近代思想との出会いにより、共同体や宗教から切り離された、自立した「個」が生まれました。
近代的な自我は、中世的なしがらみや宗教的束縛からの「自由」をもたらしました。しかしその裏腹に、自我が中心となりすぎた結果、私たちを支えている大いなる存在を忘れてしまった側面もあります。柳は、この点に強く警鐘を鳴らしました。
もともと日本の精神風土には、浄土思想の中心である「他力」がありました。それは、阿弥陀仏の絶対的な慈悲と本願力(ほんがんりき=衆生を救済しようとする根本的な願いの力)によって、我々は阿弥陀仏に帰依しさえすれば「既に救われている」という思想です。この思想が近代化の過程で軽視されてしまったが、もともと日本の風土にあるのだから、そこに戻ればよい、というのが柳の考え方です。
柳の慧眼は、この「他力」という阿弥陀仏の力が、実は民藝の品々にも宿っているのではないか、それこそが「他力の美」の証拠ではないか、と見抜いた点にあります。柳は、この他力の思想を美の世界に敷衍しました。無名の工人による工藝品の美は、作り手の作為(自力)ではなく、むしろ他力の力によって達成されている。だからこそ、私たちは物作りにおいて既に救われており、人類の普遍的救済の可能性がここにあるのではないか、と考えたのです。
このように、信仰の世界のものであった「他力」が、美の世界にも働いている。「他力」を結節点として、宗教的思想(信)と美の思想が分かちがたく結ばれている。これが「美信一如」の境地です。柳が「一個の器も文字無き聖書だ」と述べたように、一個の器にも宗教的な真理が宿っているのです。
② 念仏思想の深化と日本的仏教の再評価
第二に、「念仏思想の深化」と「日本的仏教の再評価」です。柳は特に『南無阿弥陀仏』という書物で詳しく展開していますが、日本の浄土思想を、法然、親鸞、そして一遍という流れで捉えます。柳は彼らを一つの全体的な浄土の思想(他力道)を体現する存在として捉え、この三人をもって日本の念仏思想は完成されたと考えました。
柳の功績は、単に仏教思想を解説するに留まらず、日本の伝統的な思想の中にこの「他力」が存在し、それが近代化の中で私たちが失ったものを取り戻すために不可欠な思想であることを、美を通して明らかにしようとした点にあります。
③ 東洋の美学の樹立
第三は、「東洋の美学の樹立」です。明治以降の日本の美学・美術は、非常に西洋中心の価値観で構成されていました。岡倉天心らが東京美術学校(現・東京藝術大学)を設立した際も、西洋の基準で日本の美術を捉えようとする流れがありました。
そうした流れに対し、柳は、東洋独自の美学、日本独自の美があるはずだと主張しました。単に西洋の芸術論を模倣するのではなく、日本の精神的風土に根ざした美学を打ち立てる必要性を説いたのです。それが仏教美学であり、先述の「他力」的な思想こそが、日本の美の核心であると考えました。逆に言えば、西洋の美は、個人の才能や意識を重視する「自力」の思想によって成り立っていると捉えたのです。
④ 民藝運動から「美の宗教」へ
第四は、「民藝運動から美の宗教へ」という展開です。民藝運動とは、日常の様々な雑器、生活用品の中に美が宿っていることを発見した運動だけに留まりません。むしろ、それは一つの「精神的な覚醒」の運動、すなわち「精神運動」であったと捉えることができます。産業革命や資本主義の進展により、手仕事やそこに宿る精神性が失われていく中で、いかに日常生活の中に目に見えない精神性や「浄土」を回復させていくかのかがそのテーマでありました。
民藝運動をそのような精神覚醒運動と捉えた場合、単なる美論だけではなく、それを支える宗教的な基盤が必要となります。そこで仏教美学が要請されたのです。柳は「美が持つ宗教的な力」に注目し、それを「美の宗教」という形で人々に分かりやすく伝えようとしました。
まとめると、仏教美学が生まれた背景には、近代化への危機感を根底としつつ、①他力思想と美信一如、②念仏思想(南無阿弥陀仏)の再評価、③西洋に対抗する東洋の美学の樹立、④精神的覚醒運動としての美の宗教、という4つの側面があったのです。
『美の法門』の核心へ — 還暦を前の決意
では、具体的に『美の法門』の内容に入っていきます。この論考の最後(あとがき)に、柳がこの論考を思い立った経緯と心境が書かれています。
発表された1949年は、柳が還暦(60歳)を迎える年でした。還暦を前に、自分自身の美論を体系化するきっかけが与えられたのです。柳は次のように記しています。
「まもなく私の齢は、暦を一円にして、元に還るに至った。これをしお(機会)に私のかねがねの美論にも一つの整理を与えたい希(ねが)いである。考えるとこれは今までの思想の結論とも言えるが、むしろこれを新たな発足(活動をはじめること)として前に進みたいのが私の心願である。」
60歳を前に、これまでの理論に一つの結論を与えると同時に、これを「新しい出発点」としたいという、柳の真摯な決意が込められています。
柳が目指したのは、民藝美論に確固たる宗教的な基礎を与えること、すなわち仏教美学の確立でした。そして、仏教美学を通じて私たちが精神的な覚醒を成し遂げれば、現世に「美の王国(浄土)」が実現する、と望んだのです。
柳にとって、美の探求は人間存在の根源的な探求と不可分に結びついていました。根本思想である「美信一如」が示すように、工芸の美はそのまま人間の生き方の探求につながります。私たちは美を介して「真」(宗教的真理)と向き合い、自己の生き方を確立し、ある種の悟り、精神的な覚醒に至ることができる。そう柳は願ったのです。
民藝の品を通じて宗教的真理にたどり着く、という点については、「物を制作する側(作り手)」と「日常生活で使う側(使い手)」の二つの側面があります。作り手にとっては、まさに「他力」の問題、すなわち自力ではなく他力によって、我執(がしゅう=自己中心的なとらわれ)を離れて物作りをすることが重要になります。一方、使い手もまた、民藝の品と向き合うことを通じて、そこに宿る精神性を感じ取れるかどうかが問われます。柳によれば、私たち使い手もまた、民藝の品を通して宗教的真理に覚醒することができるのです。
民藝美学の核心と「第十八願」
特に柳は、民藝美学の核心部分が、日本の精神風土の大きな部分を占めてきた浄土思想、さらにその中の「阿弥陀如来の大願」に基づいていると述べます。
柳は次のように述べています。
「民藝の美論が一宗を形作らんとするには、等しく無上な典拠があって然るべきでないか。民衆の宗教として立った念仏の一道は、その信仰や教学のすべてを、阿弥陀如来の大願に基づけ、わけてもその第十八願、すなわち「念仏往生の願」に託していることは、誰も知る通りである。」
柳がここで言及するのが、この「第十八願(念仏往生の願)」です。これは、どのような人間であっても「南無阿弥陀仏」という六文字を称え、阿弥陀仏を信じさえすれば、その絶対的な他力によって往生(成仏)できる、という思想です(凡夫成仏=ぼんぶじょうぶつ)。
(ちなみに「南無阿弥陀仏」とは、「南無(ナマス)=帰依します」+「阿弥陀仏(アミターバ/アミターユス=計り知れない光・寿命を持つもの)」、すなわち「無限の存在に帰依します」という意味です。)
「どんな人でも他力によって成仏できる」というこの思想が、「誰もが他力によって美を生み出しうる」という民藝の思想と、通じ合うものがあるのです。
このように柳は、浄土思想から受け取った「万民救済の論理」を、美の世界にも敷衍しました。阿弥陀仏の他力の力によって我々は救われている、という宗教的真理と、正しい道(=他力)に従って物作りをすれば誰もが美に触れうる、という民藝美論が、ここにおいて一致するのです。
啓示の瞬間 — 第四願「無有好醜の願」との出会い
そして、柳が城端別院で啓示を受けた瞬間、すなわち『大無量寿経』の中の「第四願(無有好醜の願)」に出会った時の感動を、柳自身が文章に残しています。おそらく初めて読んだわけではないでしょうが、その時に強烈に言葉が響いたのです。
「今年(1948年)の夏、たまたま『大無量寿経』を繙いて、その悲願の正文を読み返しつつあった時、第四願に至ってはたと想いあたるところがあった。何か釈然として結氷の解けていく想いが心に流れた。この一願の上にこそ、美の法門が建てられてよい。そう忽然と自覚されるに至ったのである。私は思わずも『無有好醜の願』と呼びなされるその聖句によって、思想を展開させた。常に遅筆な私がわずか一日にして一文を書き終えたことは稀有な経験であった。もとより短文であってわずかに要旨を綴ったものに過ぎなくはあるが、永い間紆余曲折を経た私の思考も、ここにようやく一段階に達した想いがある。先にも述べた通り、これを新しい発足として美の法門を宣揚したい希いなのである。内に込めた思想は本文が語る通りであるが、要するに民藝美論の基礎を仏の大悲に求めようと志すのである。」「美の法門 後記」
それまで柳の中で蓄積してきた思索が、『大無量寿経』の第四願—美醜の区別がない絶対平等の世界—との出会いによって一気に噴出した様子が非常によく現れています。そして一晩で書き上げたのが『美の法門』でした。
ですから、この『美の法門』という論考は、単なる学術的な論文ではありません。むしろ、柳宗悦が城端別院で与えられた宗教的な体験を一気に書き上げた、柳の魂が宿った書物であると言えるのではないでしょうか。
今回はここまでにします。ご視聴いただきましてありがとうございました。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
主に文化、芸術、思想に関連する書籍を取り上げます。
youtubeでも毎週月曜日更新予定です。
ぜひチャンネル登録をしてお楽しみいただければ幸いです。