『日本的霊性』《前編》
鈴木大拙(著)
皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。今回は、20世紀を代表する仏教学者、鈴木大拙(1870–1966)の著書『日本的霊性』を取り上げたいと思います。
【目次】
緒 言 − 日本的霊性につきて
第一篇 鎌倉時代と日本的霊性 − 情性的生活
第二篇 日本的霊性の顕現 − 日本的霊性の胎動と仏教
第三篇 法然上人と念仏称名 − 平家の没落
第四篇 妙 好 人 − 赤尾の道宗
解 説……篠田英雄
90年以上にわたる長い生涯において、大拙は「知の巨人」と呼ぶにふさわしい業績を残しました。特筆すべきは、その卓越した英語力です。彼は生涯で約30冊もの英文著書を執筆し、禅をはじめとする東洋思想を西洋世界に紹介する大きな役割を果たしました。その思想の全貌を収めた最新の『鈴木大拙全集』(増補新版)は、全40巻にも及ぶ膨大なものです。
実は、大拙は私たちアトリエシムラとも浅からぬ縁があります。彼は民藝運動の父・柳宗悦の師として知られていますが、私の祖母・志村ふくみの養父にあたる志村哲が、かつて大拙の事務所で働いていたという経緯があるのです。哲は戦前、日本郵船に勤務し、ロンドンや中国各地に滞在していました。戦後はその英語力を買われ、大拙の助手を務めていました。こうした背景から、志村ふくみもまた、間接的ではありますが、大拙の思想的影響を受けていると言えます。
本日は、この『日本的霊性』という著作に至るまでの大拙の歩みと、その思想の背景について概説したいと思います。
鈴木大拙の生涯と禅との出会い
鈴木大拙(本名:貞太郎)は、1870(明治3)年、石川県金沢市の旧家に生まれました。6歳で父を亡くし経済的に苦労しましたが、向学心は旺盛で、第四高等中学校(現・金沢大学の前身の一つ)に入学します。ここで生涯の友となる哲学者・西田幾多郎と出会い、エマーソンやカーライルといった西洋思想を共に読み漁りました。
しかし、書物による探求だけでは、彼の精神的な渇望は満たされませんでした。家計の事情で学校を中退し、英語教師を務めた後、21歳で上京します。東京帝国大学の選科生として学びつつ、彼は実践的な道を求め、鎌倉の円覚寺の門を叩きました。そこで、当時の管長である今北洪川(いまきたこうせん)、そしてその後継者である釈宗演(しゃくそうえん)という二人の優れた禅僧に出会い、本格的に禅の世界へと入っていったのです。
「分別」を超える知恵を求めて
大拙は禅の修行において「公案」に取り組みました。公案とは、師から与えられる「論理や理性では解けない問い」のことです。これに全身全霊で挑むことで、修行者は理性の限界、すなわち物事を区別・分析しようとする「分別心」では対処できない世界があることを痛感させられます。通常の認識を超えた「無分別智」という境地を目指すためには、一度、理性の壁に直面する必要があるのです。
大拙が西洋哲学に触れながらも、それを超えうる新しい「知」の境地を求めた背景には、こうした禅の実践がありました。そして24歳の時、師である釈宗演より「大拙」という居士号を授かります。これは「大いに拙(つたな)し」、つまり技巧や小賢しさに頼らず愚直であることを意味し、その後の彼の人生を象徴する名前となりました。
アメリカでの活動と「仏教の英語化」
27歳の時、大拙は人生の大きな転機を迎えます。師の釈宗演の推薦により渡米することになったのです。これは、宗演が数年前(1893年)にシカゴで開催された万国宗教会議に出席した際、ドイツ出身の宗教学者ポール・ケーラスと知己を得たことがきっかけでした。大拙はケーラスの助手として、イリノイ州の出版社「オープン・コート社」で働くことになり、以後、約12年間にわたり、東洋思想に関する翻訳や編集の仕事に従事しました。
この期間の最大の成果の一つが、『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』の英訳です。5〜6世紀頃に成立したとされるこの書物は、非常に難解なことで知られますが、大拙はこれを英語に訳すプロセスを通じて、大乗仏教の核心への理解を深めていきました。そして、その集大成として執筆されたのが、英文による『大乗仏教概論』です。
この著作の特徴は、仏教思想、特に「唯心論(ゆいしんろん:あらゆる存在は心が作り出したものとする思想)」の立場から、大乗仏教を西洋的な論理で明快に解説した点にあります。それまで西洋において、仏教は単なる「偶像崇拝の異教」と見られがちでした。しかし大拙の著作によって、仏教が高度に洗練された哲学的体系を持つ宗教であることが認識されるようになり、西洋の思想界に大きな影響を与えました。
帰国後の思想形成と神秘主義への関心
39歳で帰国した大拙は、学習院大学や東京帝国大学、後には大谷大学などで教鞭を執ります。学習院では若き日の柳宗悦と出会い、後に柳が「仏教美学」を打ち立てる際の思想的基盤を与えました。
この時期、私生活ではアメリカで教育を受けたビアトリス・アースキン・レーンと結婚します。彼女は神智学に深く傾倒していました。神智学とは、西洋の秘教思想と東洋の宗教思想を融合させ、普遍的な神的叡智に到達しようとする運動です。
大拙自身も、妻の影響もあり、神智学や西洋神秘主義に関心を持ちました。特にスウェーデンの神秘思想家スウェーデンボルグの研究に打ち込み、『天界と地獄』などの翻訳も手がけています。これらの研究を通じて、彼は特定の宗教の枠を超えた「目に見えない世界」の存在や、神秘体験の普遍性(例えば、キリスト教神秘主義と仏教の構造的類似性など)に着目していきました。この思想的広がりが、後の『日本的霊性』の探求へとつながっていきます。
『日本的霊性』が説くもの
さて、こうした思想的背景のもと、1944(昭和19)年、太平洋戦争の敗色が濃厚となる中で出版されたのが、『日本的霊性』です。ここで重要なのは、大拙がなぜ「精神」ではなく「霊性」という言葉を用いたのか、という点です。
当時、軍国主義的なイデオロギーは「日本精神」という言葉で称揚されていました。大拙は、そうした国家主義によって歪められた「精神」とは明確に一線を画す、日本人が古来より育んできた根源的な宗教的意識を表現するために、あえて「霊性」という言葉を選んだのです。
「霊性」とは、特定の教義や宗派といった枠組みにとらわれない、直接的かつ根源的な宗教的経験そのものを指します。大拙は、この「霊性」の再発見こそが、日本人の精神的な拠り所を取り戻す鍵となると考えました。
禅と浄土教、そして「妙好人」
大拙は霊性体験の典型を、自らが実践してきた禅における「見性(けんしょう:自らの仏性を見抜くこと)」に見出します。しかし、禅の修行は厳しく、ともすれば一種のエリートのためのものになりがちです。そこで彼は、禅だけではなく、広く民衆の中に根を下ろした浄土系仏教の信仰の中にも、深い霊性の発露を見出しました。
特に大拙が注目したのが「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれる人々です。妙好人とは、学問や特別な修行とは無縁の市井の人々でありながら、阿弥陀仏への絶対的な帰依(他力)によって、深い宗教的境地に達した篤信者のことです。大拙は、「自力」を重んじる禅であれ、「他力」を説く浄土教であれ、登る道は違っても、到達する「霊性」の深みにおいては一つであると考えたのです。
戦後の活動と「事事無礙」の世界観
戦後、大拙は新生日本の精神的支柱の再建に尽力しました。1946年には昭和天皇への御進講を行っています。その際のテーマは、仏教の核心である「大智(だいち:智慧)」と「大悲(だいひ:慈悲)」でした(この講義録は後に『仏教の大意』として出版されました)。また、欧米での活動も再開し、コロンビア大学などで精力的に講義を行います。
晩年の大拙が、こうした講義で取り上げた重要な概念に、華厳経の「事事無礙(じじむげ)」があります。これは「この世の万物(事々)が、お互いに妨げられることなく(無礙)影響し合い、一体となって宇宙を構成している」という壮大な世界観です。
華厳哲学と織物の共通点
この「事事無礙」の思想は、私たちが行っている「織物」の世界観と非常に親和性が高いものです。織物は、経糸と緯糸の一本一本が交差して出来上がります。一つひとつの色は個別のものですが、隣り合う色によってその見え方が変わり、同時に周囲の色にも影響を与えます。個でありながら全体と関わり合い、全体の中に個がある。これはまさに「事事無礙」の世界そのものと言えるでしょう。
興味深いことに、コロンビア大学でのこの講義には、現代音楽家のジョン・ケージなども参加していました。大拙の思想は、当時の前衛芸術家たちにも多大なインスピレーションを与えたのです。
親鸞への回帰
思想家として世界的な名声を得た大拙が、晩年、心血を注いだ仕事の一つが、親鸞の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の英訳でした。厳しい「自力」の禅から出発した大拙が、最終的に「絶対他力」を説く親鸞の世界へと回帰していったことは、非常に示唆的です。
これは、彼の生涯をかけた霊性探求の旅の帰結だったのかもしれません。「自力」か「他力」かという方法論的な対立を超え、大いなるものの存在の内に、霊性の究極的な極致を見出したのではないでしょうか。
今回は、鈴木大拙の生涯とその思想の変遷、そして『日本的霊性』が書かれた背景について概説しました。次回は、いよいよ『日本的霊性』の具体的な内容へと踏み込んでいきたいと思います。
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