『美の法門』《後編》
柳宗悦(著)
皆さん、こんにちは、アトリエシムラの志村昌司です。柳宗悦の『美の法門』最終回後編をお届けします。
【目次】
『美の法門』
『無有好醜の願』
『美の浄土』
『法と美』ほか2編
不二のままの美――「あるが」の姿
まずはじめに、「不二(ふに)の美」とは何かを確認しましょう。これは「美醜を超えた美」、つまり、美醜という二元論的な見方を超えた先にある「あるがままの姿」こそが美しい考え方です。
柳は次のように考えています。
「本来のままであればよいのである。あるがままの本然の帰ることである。」
私たちが作ったまま為を捨て、あるがの姿に立ち帰ることによってこそ、本来の美に近づきを得られるのだ。
この「あるがまま」という言葉が、本書全体を貫く非常に重要なキーワードです。私たちはよく、「美と醜」「善と悪」といった二元論、つまり「分別心(ふんべつしん)」によって、世界を判断し、分けて認識しています。
柳が示唆するのは、時々の認識の限界とは異なる方法で、存在の真理を認識しなければならない、ということです。
執着からの解放と「自由の美」
では、この「不二の美」はどのように現れるのでしょうか。柳は、まず「自然の姿」に注目します。自然のあるがそのままの姿は、一つの真理の世界、不二の美の現れであると考えられます。
仏教には「自然法爾(じねんほうに)」という言葉があります。とは、真理(法)として必然的にそのようになっている様という意味です。
さて、私たちは、なんとなくこの「ありのままの姿」、真理の世界に近づき、それを表現するかが問われます。その際、最も重要なのは、自己執着から解放されて自由な心を持つことです。
この「執着」は、「我執(がしゅう)」や「小我(しょうが)」のような言葉で批判されます。ということ自体への執着も含まれます。 当然一切の計らいから自由になり、囚われない心、偏らない心を構えた時に初めて、私たちは二元対立を超えた「あるがままの世界」に優先する精神を持ち得るのです。
柳は、真に美しいものとは「美とか醜い二元から解放されたもの」であり、それゆえに「自由の美しさ」とでも呼ぶべきものだと言われています。
阿弥陀仏は「無碍光如来(むげにょらい)」とも呼ばれますが、「無碍(むげ)」とは、何ものにも気づかれず、囚われることのない自由な状態を捉えます。柳は「自由た事のみが美しさであり」、自由とは「二律(二元対立)からの解放である」と記しています。
「不二の美」の実現――他力と無心
ここから、「どっちにしても囚われない自由な心を持てるか」が、美しいものづくりをする上で決定的に重要であることがわかります。
では、どうすればこの「不二の美」は実現できるのでお願いします。 「自由自在の心を持つ」ことを目指すわけですが、自力でそこに到達するのは簡単ではありません。
柳は民藝運動を創始しましたが、晩年、その運動を振り返り、当初を述べています。る種の教条化(ドグマ化)が進んで側面が出てきました。柳は、その民藝が持つ姿勢や教条化が折れ、今迷っている「自由の心」「囚われない心」とは反対の方向に向かっているのではないか、と指摘したのです。
囚われない心とは、憂い教条的な考え方からも解放されなければなりません。
これは、あらゆる精神運動に言えることです。創始者は既存の考え方への批判から運動を始めますが、その運動が確立すると、今度はそれが一つの因習的な考え方になってしまいます。
他力による苦と井戸茶碗
人間がどこかして自由な心、もしかしたら真理の世界に定まるのか。この難問に対する柳の答えが、浄土思想の根幹をなす「他力」です。
この「他力による困難」は、柳が本書で一貫して強調していることである。
そう言われても、にわかには信じがたいかも知れません。
ここに、作り手の意図(自力)を超えた「他力」の力が働いている証拠を見ることができることが、と柳は言います。
無心の境地と「作為の罠」
井戸茶碗の例が示すように、「うまくやってやろう」として「作為」を放棄するかが重要であり、これが「無心」の境地 土地議論につながります。
繰り返しますが、「無心に」とは、何も考えていないことではありません。 今日はなく、囚われない心、執着から解放された状態が無心です。
ただ、ものづくり――機であれば機を織る、器であれば轆轤(ろくろ)を捨てる――という行為弊害に、無心の境地に近づき力があります。機を織っていると、一瞬機と自分が一体化し、囚われない自分の心に湧き出てくる。
これは、言葉で説明して理解できるものではなく、実践しながら自分自身の心の変化を感じ取っていくしかないでしょう。
「作為を捨てよう」「無心になろう」と一生懸命努力すること、その努力こそがまた新たな「作為」になってしまうのです。
日常の「平常心」と「美の浄土」
この「作為から抜け出ようとする作為」という罠から、なんとなく抜け出るのか。ここで柳は「平常心」の大切さを説きます。「ありのままの心」、特別なことを意識しない日常の心です。
この平常心は、ものづくりをする人だけが得られるものではありません。
この「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」(歩く・留まる・座る・寝るという日常の立ち居振る舞い)において、目の前のことに心を集中させ、「よしあし」の判断を加えずに淡々と行っていく繰り返しの中で、自分を身につける実践があるのです。
日常生活をきちんと行うことこそが、私たちの作品為から解放される一つのきっかけとなる。
そして、この「不二の美」が実現された世界を、柳は「美の浄土」と呼んでいます。無心の境地で、囚われない心でも見て、ものづくりをしていた先にある世界です。
この「美の浄土」がどんな世界か、柳はこう説明しています。美の浄土では、天才と凡人、賢愚や巧敏、貴賤、美劣差がない。これはすべてが同じだということでなく、それぞれのものが怖かったまで、それぞれがすべて美しさに受けとられる、ということを意味する。
すべての生き物に仏性が宿るように、あらゆるものは、すでに美しくなるようにできている。 それは阿弥陀仏の「誓願」に見られるように、すでに他力によって成っている、と柳は言います。
問題は、私たちがこれを信じているかどうかです。 本来、私たちが「ありのままの世界」に戻れば、美しいものを勝手にできる。
この「美の浄土」は、天才と凡人、上手い下手の区別が一切なく、それぞれが「ありのまま」で美しいと認められる世界です。
さらに柳は、この議論を極端まで推し進めます。 「真別の力門は、信と不信ともあると思うではあるまい」。
美の浄土はどこにあるのか
最後に、「美の浄土」はどこにあるのか、という問題です。柳は、それは遥か彼方にあるのではなく、「目の前の今、ここ」に、我々の意識さえ変われば実現し得るのだと説きます。
美の浄土は、先に到着したり、遠い理想郷だったりするのではなく、「今、目の前」に実現するという指摘が、柳の考えの核心です。
柳は「浄土」の対概念として「穢土(えど)」(汚された土地)という言葉を使います。私たちの住むこの世界(穢土)は、様々な面で不完全であり、不条理であり、とても充実しています。
「汚染土を本気で嫌離する時、実はその汚染土が転がって浄土と直結致しますので、汚染土が現実の事実限りである、浄土もまた、現下の場になって参っております。」
私がこの裕福な不条理さや悲しさを心から嫌った(厭離した)瞬間に、浄土になる可能性が出てくる。
現状が醜いもので充実していること、それは取りも直らず「美の浄土」に焦く機縁になっています。 とりあえず不条理や醜さを厭う気持ちが強いほど、それは美の浄土に向かう機縁としても強くなります。
精神運動としての民藝
問題は、私たちが「なんとなく精神的な覚醒をやっているのか」です。 その精神的な覚醒とは、この「此岸(しがん)」(現実の穢土)と、「彼岸(ひがん)」(美の浄土)が断絶しているのではなく、実は重なり合っているのだと気づいていることです。
「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」(穢土を厭い、浄土を願う)と心から願う瞬間に真理に覚醒、というのが伝統的な浄土教の説明ですが、柳はここで、覚醒する機縁として「物(もの)の力」を導入します。
民藝の品々、とりあえず「ありのままの無心の心」で作られた品には、私たちに精神的な覚醒を起こさせる「美の力」が宿っている。これこそが、民藝の最も根本的な役割である。
柳が大事にして、名前も無き職人たちの民藝の品々は、私たちに精神的な覚醒を起こさせる具体的な了解を与えてくれます。
民藝運動とは、暫定手仕事の重要性を一時した近代化へのアンチテーゼに留まりません。 それは「物を通して見えない世界へ参入する運動」、あるいは「この当面の二重の立場から考える精神運動」として、当初考えられていたのだと柳は『美の法門』で決めているのです。
美の法門――衆生の救済を願って
「美の法門」あるいは「美の宗教」という言葉は、物を通して見えない世界、他力の世界へ向かう道を意味します。
柳の仏教美学は浄土思想を中心としていますが、柳の最大の特徴は、伝統的な宗教が力を込めてきた「なき信時代」において、どう見ても目に見えない世界や大きな力になることに気づくか、という点にあります。
目に見えない世界が信じられない現代人のためには、目の前にある具体的な物を通して、そのものの背景にある精神的な世界を見つつ、一つの現代的な宗教ことが成り得る。これが「美の法門」です。
柳は最終的に、この「美の法門」による衆生(しゅじょう)(生きとし生けるもの)の救済を願います。最後に、彼はその思いを込めて、次のように反省しています。
「私がこのような思考を組み立てるに集中したのも、美の王国を建設したい志願による。 かかる王土の現存には、衆生の済度が約束されていなければならない。 どんな人がどんな物を作っても、本来はそのまま美しさの世界に摂取されるように仕組まれていなけれあまり名もない工人が多く作る民藝品が、必然的に救われるその原理がつきとめられない。一人一人が優れた芸術家になって得て、かかる結果を生むということではない。 すべてがありのままの状態で救われるのだ。 この事実なくして何の希望があるのか。 」
この本を書き終えてほどなく、柳は覚悟します。この柳の遺言とも言える思いは、ものづくりをする人々にとって非常に勇気づけられるものです。
現代の資本主義社会において、手仕事の品を作っていく意味が見失われつつあります。その中で、手仕事によるものづくりは、ただ日常の用に足るというだけでなく、作り手が「あるがままの姿」、真理の世界に触れたものづくりをすることによって、当面精神的な覚醒を得る。 それこそが本来の手仕事、ものづくりの大きな存在意義なのだと明らかにした点が、柳宗悦の最も大きな功績ではないでしょうか。
ご視聴いただきましてありがとうございました。次回からは鈴木大拙(著)『日本的霊性』をお届けします。
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