『いきの構造』(後編)
九鬼周造(著)
こんにちは、アトリエシムラの志村昌司です。
今回は、九鬼周造『「いき」の構造』の後編をお届けします。
前回の中編では、「いき」の内面構造を成す「媚態(びたい)」「意気地(いきじ)」「諦め(あきらめ)」という3つの契機について解説しました。
後編となる今回は、これらの哲学的な概念が、現実の芸術表現——具体的には着物の「柄」や「色」——としてどのように具現化されているのか、九鬼周造の議論を紐解きながらお話しします。
九鬼周造(著)『「いき」の構造』
版元:講談社(2003年)
【目次】
1 序説
2 「いき」の内包的構造
3 「いき」の外延的構造
4 「いき」の自然的表現
5 「いき」の芸術的表現
6 結論
1. 「縞(しま)」模様に宿る美意識
まずは「形」の表現、着物の柄として馴染み深い「縞」についてです。
九鬼によれば、この単純に見える縞模様には、「いき」の構造と深く関わる美意識、すなわち「二元性の哲学」が反映されているといいます。
・平行線としての「媚態」
九鬼は、縞模様こそが「いき」の第一の契機である「媚態」の本質を表していると考えました。媚態の本質とは、異性との「つかず離れず」の緊張関係を維持することです。これを幾何学的に表現すると、永遠に寄り添いながらも決して交わらない「平行線」となります。
もし線と線が交差(クロス)してしまえば、それは二人が合一してしまったことを意味し、媚態特有の距離感(緊張関係)は消滅します。逆に、離れすぎてしまえば関係性は失われます。
したがって、永遠に交わらない平行線こそが媚態の視覚的表現であり、それを意匠化した「縞」こそが、最も「いき」な柄であると九鬼は結論づけたのです。
「幾何学的図形としては平行線ほど(『いき』の基本である媚態の『つかず離れず』という)二元性をよくあらわしているものはない。永遠に伸び続けながら永遠に交わることのない平行線はこうした二元性が最も純粋に視覚化された形態であり、縞が『いき』な模様とされるのは偶然ではない。」
・横縞よりも「縦縞」
さらに九鬼は、同じ縞でも「横縞より縦縞のほうが『いき』である」と主張します。これには「いき」の構成要素である「諦め(あきらめ)」と「意気地(いきじ)」のバランスが深く関係しています。
横縞: 視覚的に「幅」を感じさせ、どっしりと安定している状態を連想させます。これは「いき」が最も嫌う「重苦しさ」や執着であり、洗練された軽やかさが欠如しています。
縦縞: 天から地へスッと走る線です。九鬼はここに、重力に逆らわずサラリと落ちる雨脚(時雨)や、柳のような「軽やかさ」を見出しました。これは運命や現実に執着しない「諦め」の境地を表しています。
つまり、縞模様の「平行線」がつかず離れずの「媚態(二元性)」を維持し、その中での垂直な形状が執着のない「諦め(軽み)」を、そして決して交わらない線の鋭さが「意気地(気概)」を主張しているのです。
この三つの絶妙なバランスこそが、江戸時代の町人にとって極致の「いき」とされました。
実際、着物の柄の変遷を見ると、宝暦年間(18世紀中頃)までは横縞が中心でしたが、明和年間を経て、文化・文政期(19世紀初頭)には縦縞が圧倒的な主流となりました。九鬼は、この嗜好の変化を単なる流行の推移ではなく、江戸の町に「いき」という美意識が完成していく歴史的プロセスであると捉えています。
2. 「いき」な色——四十八茶百鼠
次に、色彩における「いき」の表現について見ていきましょう。
江戸時代後期には「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」という言葉が生まれ、茶色や鼠色の中に無数のバリエーションが作られ、愛好されました。
この背景には、幕府による「奢侈(しゃし)禁止令」があります。身分秩序を守るため、町人が華美な原色や金銀を用いることは禁じられました。しかし、人々はその制約を逆手にとり、許された鼠色、茶色、藍色といった地味な色の中に無限の差異を見出し、そこに「いき」という美意識を宿らせていったのです。
九鬼は、「いき」を色彩として表現するには、決して派手であってはならず、抑制された色調の中にこそ宿ると説きます。代表的なのが以下の3系統の色です。
① 鼠色(ねずみいろ)——「無」へのプロセス
鼠色は、白と黒の間にある無限の階調を持つ無彩色です。華やかな極彩色が現世的な実在を表すなら、色が消え去っていく鼠色は「無」を暗示します。そのため現世への執着を離れた「諦め」や、仏教的な無常感を最もよく表現する色であるとしました。
② 茶色——抑制された色気
茶色は、赤や黄といった本来華やかな暖色が、黒みを帯びて、明度が落ちた色です。
九鬼はこれを「『諦め』を帯びた『媚態』」と解釈しました。元々持っていた華やかさ(媚態)が、黒という否定的な要素(諦め)によって抑制され、燻(いぶ)されている状態。その洗練された「垢抜けた色気」こそが、茶色の本質なのです。
③ 青色(藍色・寒色系)——残像としての理想
青、緑、紫といった寒色系の色もまた「いき」な色とされます。ここで九鬼が展開するのが「陰性残像(いんせいざんぞう)」という独自の色彩論です。
私たちが、赤や黄色といった「現実の派手な色(媚態の対象)」をじっと見つめた後、目を閉じたり白い壁を見たりすると、その補色である「青」や「緑」がぼんやりと浮かび上がります。これが陰性残像です。
九鬼は、「いき」な色とは、現実に存在する生々しい色そのものではなく、その刺激が去った後に心に残る「残像としての色」、あるいは幻影のような色であると考えました。
現実の執着(赤)が去り、ふと心に浮かぶ冷ややかな青色。それは「諦め」と「媚態」が高度に融合した、洗練された魂の色と言えるのです。
3. 「いき」な生き方——日本人の存在様式
最後に、これら美的範疇としての「いき」が、どのような「生き方」を示唆しているのかをまとめます。
九鬼は、「武士道の理想主義(意気地)」と「仏教の非現実性(諦め)」に対し、不即不離(つかず離れず)の関係を持つ町人の生き方として「いき」を定義しました。彼の思想を要約すると、次のようになります。
「運命によって『諦め』を得た『媚態』が、『意気地』の自由に生きるのが『いき』である」
逃れられない運命(無常)を冷静に直視し引き受ける「諦め」。
他者との緊張関係の中に身を置く、色気ある「媚態」。
そして、運命や情愛の中に埋没せず、自らの意志と誇りを貫く「意気地」。
これら三つの要素がバラバラではなく、動的に統一されている姿こそが、日本人が到達した「いき」な生き方なのです。
・民族存在の自己開示として
九鬼周造がこれほどまでに「いき」を緻密に分析した背景には、ヨーロッパ留学中に哲学者マルティン・ハイデガーと出会い、その思想に深い影響を受けたことがあります。
彼は、日本民族という存在が、自らのあり方を問う手がかりとして、日本独自の美意識である「いき」に着目しました。「いき」の構造を明らかにすることは、単なる美学の枠を超え、日本人の自己理解(自己開示)を試みる壮大な哲学的挑戦だったのです。
おわりに
染織家・志村ふくみも、『「いき」の構造』について度々言及しています。特に「四十八茶百鼠」について、「これらは特別な晴れ着ではなく、庶民の日常の色であった。つまり、庶民こそが『いき』の心を本当の意味で熟知し、愛していたのではないか」と述べています。
九鬼周造が哲学的に解明した「いき」の世界は、書物の中だけでなく、かつての日本の庶民の暮らしや手仕事の中に、確かに息づいていたのです。
全3回にわたり、九鬼周造『「いき」の構造』についてお話ししました。
今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
主に文化、芸術、思想に関連する書籍を取り上げます。
youtubeでも毎週月曜日更新予定です。
ぜひチャンネル登録をしてお楽しみいただければ幸いです。