『いきの構造』(中編)
九鬼周造(著)
皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。
今回は、前回に引き続き、哲学者・九鬼周造の主著『いきの構造』の中編をお届けします。1930年(昭和5年)に出版されたこの名著は、江戸の色町(遊里)に存在した「いき(粋)」という独自の美意識を、西洋哲学の厳密な方法論を用いて解明しようとした画期的な一冊です。
なぜ、九鬼はあえて「いき」というテーマを選んだのでしょうか。その背景には、彼の母親が京都・祇園の出身(元芸妓)であったという家庭環境が大きく影響しています。ヨーロッパ留学で得た最先端の哲学的手法を用い、自身の血肉に流れる色町の独特な文化を、客観的に分析したいという切実な思いがあったのでしょう。
【目次】
1 序説
2 「いき」の内包的構造
3 「いき」の外延的構造
4 「いき」の自然的表現
5 「いき」の芸術的表現
6 結論
「生きた哲学」を目指して
九鬼周造の哲学における最大の特徴は、単なる机上の空論に終わらず、現実に基づいた「生きた哲学」を目指した点にあります。
彼は『いきの構造』の冒頭で、フランスの哲学者メーヌ・ド・ビランの「思想は存在全体を満たさなければならない」という言葉を引用しています。これは、当時主流だった新カント派のような形式的・抽象的な概念操作には飽き足らず、アンリ・ベルクソンらが提唱した「生の哲学」に共鳴した、九鬼自身の哲学的立場を象徴するものです。
哲学が単なる言葉遊びや論理の遊戯に陥ることなく、我々の生きた現実にどう反映されるのか。九鬼は常にその問いを意識しながら、「いき」という具体的な美意識の構造分析を試みたのです。
「生きた哲学というのは、身の回りの現実を理解することができるようなものでなくてはならない。私たちは『いき』という表現があることを知っているが、それならば、この現象はどのような構造をしているのだろうか。『いき』とは、つまるところ、私たち日本人に独特な『生き』かたの一つではないだろうか。こうした現実をありのままにとらえること、また、体験として実感されるべきものを理論的に解明することが本書で追求しようとする課題である。」
「いき」を構成する三つの契機
九鬼は「いき」という現象を、以下の三つの視点(契機)から重層的に分析しました。これを「三分法(トリロギー)」と呼びます。
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媚態(びたい)
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意気地(いきじ)
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諦め(あきらめ)
さらに九鬼は、この三要素の関係性を、アリストテレス哲学における「形相因(けいそういん:事物を形成する本質)」と「質量因(しつりょういん:事物の素材)」という概念を用いて、次のように定義しています。
「『いき』とは、わが国の文化を特徴づけている道徳的理想主義(意気地)と宗教的非現実性(諦め)との形相因によって、質量因たる媚態が自己の存在実現を完成したものである。」
少し難しい表現ですが、噛み砕くとこういうことです。江戸の色町における男女関係の基礎である「媚態」という素材(質量)が、「意気地」と「諦め」という二つの精神的本質(形相)によって練り上げられ、洗練されたものが「いき」である、ということです。
私たちが日常的に使う「いき」という言葉の内側には、色町の文化、武士道の精神、そして仏教的な世界観が複雑に絡み合った、非常に多層的な構造が存在しているのです。
それでは、これら三つの要素について詳しく見ていきましょう。
1. 媚態(びたい)——緊張感を孕んだ二元的態度
「いき」の基盤となる第一の契機、すなわち素材となるのが「媚態」です。
一般的に媚態というと、なまめかしさや色気といったエロス的な意味合いだけで捉えられがちですが、九鬼はこれを非常に高度で意識的な態度として定義します。
「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」(媚態とは、恋愛において、自分と異性との間に、どう転ぶかわからないような不安定な関係を持ち込むことである)
ここで言う「一元的の自己」とは、他者と関わる以前の孤立した自己を指します。人間は本質的に孤独であり、いわば「片割れ」のような存在です。その片割れが、もう一方の片割れである異性を求める衝動、これが媚態の根本です。
しかし、九鬼の定義における最重要ポイントは、この衝動が決して満たされない、つまり「完全に合一しない」という点にあります。異性との距離を限りなく縮めようとしつつも、決して距離がゼロにはならない。この「つかず離れず」の不安定な緊張関係こそが媚態の本質なのです。もし完全に結ばれてしまえば(例えば結婚するなど)、緊張感は失われ、媚態は消滅してしまいます。
あえて合一への欲望に抗い、緊張感を孕んだ「可能性」の状態を持続させること。これこそが、洗練されたエロティシズムとしての媚態です。
2. 意気地(いきじ)——武士道の精神
この媚態の緊張感を背後で支えるのが、第二の契機「意気地」です。これは日本古来の武士道の精神に根ざした価値観です。
媚態における男女の緊張関係は、放っておけば情に流され、なし崩し的に解消されてしまう(=弛緩してしまう)恐れがあります。そこで、相手の魅力に惹かれつつも、決して自己の独立性を失わず、安易に屈服しないという「反抗精神」が必要になります。これが「意気地」です。九鬼はこれを「理想主義のもたらした心の強み(自己の独立を誇り高く堅持しようとする心持ち)」と呼びます。
これは江戸っ子の「意地」の文化にも通じます。「意地を張る」という行為は、相手に受け入れられたいという甘えがありながら、それが拒絶されたときに生じる反発的な自己主張であり、常に他者の存在を前提とした日本独特のメンタリティと言えます。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるように、武士道とは「他者からどう見られるか」以上に、「自分が自分をどう見るか」という自敬の念(自らを敬う心)に基づいています。
この誇り高い「意気地」が加わることで、媚態に「犯すべからざる気品」がもたらされるのです。
3. 諦め(あきらめ)——仏教的な無常観
第三の契機が「諦め」です。これは媚態や意気地といった現世的な価値観とは異なり、仏教的な世界観に基づいた要素です。
ここでの「諦め」とは、単なる断念や絶望ではありません。運命を明らかにし(諦らかにし)、物事に執着しない「無関心」の境地を指します。
男女の仲がいずれ終わりを迎えるかもしれないという流転無常(るてんむじょう)の真理を、関係が始まるときから既に予見し、受け入れている態度です。
一見、情熱的な「媚態」と、冷めた「諦め」は矛盾するように思えます。しかし九鬼は、「諦めは媚態と相容れないものではなく、かえって媚態の本質を完成させる」と説きます。
なぜなら、媚態の本質が「目的(恋愛の成就)を達成しないこと」にある以上、結果への執着を離れる「諦め」の心を持つことは、むしろ媚態(緊張関係)の純粋な持続を可能にするからです。
現世のしがらみや執着から心を解放し、垢抜けた、恬淡無碍(てんたんむげ)な自由な心を持つこと。これが「諦め」によって得られる境地です。
結論:運命の受容と「いき」の完成
九鬼は、これら三者の関係、特に「媚態」と「諦め」の結合について、次のように述べています。
「媚態と『諦め』との結合は、自由への帰依が運命によって強要され、可能性の措定が必然性によって規定されたことを意味している。すなわち、そこには否定による肯定が見られる。」(自由への帰依が運命によって受け入れざるをえない、すなわち自分と相手との関係がどこまでも不安定にならざるえないならば、媚態と諦めは必然的に結びつくのである)。
様々な偶然性に満ちた人間関係(媚態)を経て、最終的には必然的な別れや運命(諦め)に行き着く。その運命を、嫌々ではなく「自由への帰依」として積極的に受け入れたとき、媚態は否定されるのではなく、むしろ「いき」として肯定的に昇華されるのです。
「媚態(エロス)」をベースに、「意気地(武士道)」による緊張感と、「諦め(仏教)」による達観が絶妙なバランスで統合されたもの。これこそが、九鬼周造が解き明かした『いきの構造』の全容なのです。
九鬼は、ヨーロッパの哲学手法を用いながら、自身のルーツである日本の美意識を見事に分析しました。それは、単なる学問的な研究にとどまらず、彼自身の生き方そのものを哲学的に問い直す営みでもあったと言えるでしょう。
次回は、この続きとして後編をお届けしたいと思います。
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