『「いき」の構造』(前編)
九鬼周造(著)
皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。
今週の読書では、九鬼周造の不朽の名著『「いき」の構造』を、全3回に分けてご紹介します。
テキストには、解説が充実しており、現在でも入手しやすい講談社学術文庫版を使用します。日本の哲学書として非常に有名な一冊ですので、ぜひ原著をお手元に置いて解説をお読みいただければと思います。
第1回となる今回は、本論に入る前に、九鬼周造という人物の生涯と、その特異な思想が生まれた背景について掘り下げていきます。
【目次】
1 序説
2 「いき」の内包的構造
3 「いき」の外延的構造
4 「いき」の自然的表現
5 「いき」の芸術的表現
6 結論
1. 詩人哲学者・九鬼周造の三つの業績
九鬼周造(1888-1941)は、厳密な論理性を持った哲学者であると同時に、『「いき」の構造』に代表される日本文化の深層を、その論理性をもって明らかにした稀有な「詩人哲学者」として知られています。
彼は、西洋哲学の言語や手法を用いながら、日本文化の真相を解明しようと試みました。彼の業績は大きく以下の3つに分類されます。
1 西洋哲学の研究:フランス哲学やドイツ哲学など、西洋近代哲学の厳密な研究。
2 偶然性の研究:主著『偶然性の問題』に代表される、非常に難解かつ深遠な哲学的研究。
3 日本文化の研究:『「いき」の構造』に代表される、日本独自の美意識の探求。
九鬼の思想において特筆すべき点は、西洋哲学に精通しながらも、「孤独な主体」を基調としていることです。主体と主体との予測不可能な出会いを「根源的な偶然性」として捉え、そこから「関係性の哲学」を展開したことが、彼の思想の大きな特徴と言えます。
2. 宿命的な生い立ち:「二人の父」と楕円の論理
九鬼周造の思想を理解する上で避けて通れないのが、彼の極めて複雑な生い立ちです。
華麗なる一族とスキャンダル
1888(明治21)年、彼は東京の芝で生まれました。父は男爵であり、文部官僚として駐米特命全権公使や帝国博物館(現・東京国立博物館)総長などを歴任した九鬼隆一。母は京都・祇園の芸妓出身である初子(はつこ/波津)です。
明治維新以降の日本の近代化を担った父と、江戸時代から続く前近代的な文化を象徴する母。この対照的な両親のもとに彼は生まれました。
しかし、ここで決定的な事件が起こります。母・初子と、父の部下であった岡倉天心との間に恋愛事件が勃発したのです。初子が夫・隆一の米国滞在に同行した後、妊娠中(のちの周造)の彼女を日本で出産させるため、隆一は帰国を命じます。そのエスコート役として指名されたのが岡倉天心でした。ワシントンから日本への1ヶ月余りの船旅の中で、二人は恋に落ち、世間を騒がせるスキャンダルへと発展してしまいます。
この三角関係の中で生まれた周造は、自身の出生について「隆一の子ではなく、天心の子ではないか」という疑念を抱き続けることになります。両親は別居し、後に離縁。母は精神的に追い詰められ、悲劇的な最期を迎えることとなりました。
「楕円形」の精神構造
九鬼周造は自伝的随筆『根岸』の中で、当時の様子を次のように回想しています。
「母は急にひとり京都へ行くことになった。ある夜、岡倉氏は母の膝にもたれている私を顧みながら、荘重な口調でこの児が可哀想ですと言った。父は母を岡倉氏から離すために京都に住まわせたらしかった。岡倉氏と母との交際に対する岡倉夫人(基子)の嫉妬というようなこともその後私は耳にしたことがあった。ともかくも母は京都へ行き、兄と私とは当時上野の博物館の主事をしていられた久保田鼎(かなえ)氏のところにしばらくあずけられた。その後、母は京都から帰って来てまた東京で父と別居していた。…まもなく母は父親から離縁され…。」
精神分析において「父性原理」は、子供の精神発達や統合の原理(超自我)として機能するとされます。しかし、周造には「実父・九鬼隆一」と「精神的な父・岡倉天心」という二人の父が存在しました。
通常の円が中心を一つ持つのに対し、周造の精神は二つの焦点を持つ「楕円形」のような状態でした。彼はどちらの父にも完全に帰属できず、また母との一体感も引き裂かれ、中心を欠いたまま二つの焦点の周りを周回するような不安定な自我を抱えて成長しました。
この「中心性の欠如」と、運命に翻弄される感覚こそが、後の彼の「偶然性の哲学」の土壌となったのです。
3. 青春時代の出会いと挫折
東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大附属中・高)に進んだ周造は、意外にも植物学者を志し、ゲーテの『自然学』に深い共感を覚えます。ニュートン的な機械論的科学観(「灰色の科学」)ではなく、直観によって自然の根源的事象を捉えようとするゲーテの姿勢は、後の彼の現象学的アプローチへと繋がっていきます。
1905年、第一高等学校独法科に入学。同級生には天野貞祐(哲学者)、和辻哲郎(倫理学者)、谷崎潤一郎(小説家)、岩下壮一(カトリック司祭)といった、後の日本を代表する知識人がいました。彼はここで哲学と文学に傾倒します。
また、決定的な出来事として、友人である岩下壮一の妹・亀代(きよ)への失恋がありました。彼女はカトリックの修道女となる道を選び、周造の恋は破れます。この絶望をきっかけに、彼は1911年にカトリックの洗礼を受けます。洗礼名は「Franciscus Assisiensis Kuki Shuzo」。清貧の聖人アッシジのフランチェスコに倣い、世俗的な価値や所有から離脱した生き方を模索しようとしたのです。
1909年、東京帝国大学哲学科に進み、お雇い外国人教師であったケーベル博士に師事。「物心相互の関係」という論文で卒業し、大学院へと進みます。私生活では、兄の未亡人であった縫子(ぬいこ)と結婚し、生活の基盤を固めていきました。
4. ヨーロッパ留学:世界的哲学者たちとの対話
1921年、周造は妻と共にヨーロッパへ留学し、約8年間にわたり遊学を続けます。この留学における彼の行動力と吸収力は驚くべきものでした。
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ドイツ・ハイデルベルク大学:新カント派のハインリヒ・リッケルト(1863-1936)に師事し、学問的厳密性を学ぶ。
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パリ:アンリ・ベルクソン(1859-1941)と出会う。生の哲学や形而上学的直観に触れ、カント派の形式主義から解放される。この頃、若き日のジャン=ポール・サルトルからフランス語の個人指導を受けていたというエピソードも残っています。また、随筆『巴里心景』などを執筆し、芸術家としての一面も見せました。
「我々のもとでベルクソンの果たした役割は、主として形而上学への意欲を駆り立てたことであった。ドイツ新カント派の批判的形式主義によってあまりにも干からびさせられた我々の精神は、ベルクソンの形而上学的直観という『天恵の慈雨』を迎え入れたのであった。」「日本におけるベルクソン」
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ドイツ・フライブルク大学:エドムント・フッサール(1859-1938)から現象学を学び、さらにマルティン・ハイデガー(1889-1976)とも面会。『存在と時間』の衝撃を受け、多大な影響を受けました。
1928年には、フランスのポンティニー修道院で開かれた国際的な討論会に参加。「時間の観念と東洋における時間の反復」「日本芸術における『無限』の表現」という二つの講演を行いました。これらは後に彼の著書『時間論』へと結実します。
また、パリ滞在中には『「いき」の本質』を脱稿。西洋哲学の最先端を学びながら、日本文化の深層を探求するという独自のアプローチを確立していきました。
5. 帰国後の活躍と静かな最期
1929年、日本郵船の春洋丸で帰国した九鬼周造は、京都帝国大学の教授として西洋哲学を講じます。そして、留学の成果とも言える重要な著作を次々と発表しました。
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『「いき」の構造』(1930年):江戸遊郭の美意識である「いき」を、媚態(びたい)・意気地(いきじ)・諦め(あきらめ)という三つの契機から構造的に解明。
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『偶然性の問題』(1935年):我々の生を貫く偶然性を、定言的偶然・仮説的偶然・離接的偶然に分類して、偶然性の本質を論じた哲学的労作。
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『人間と実存』(1939年):ハイデガーらから学んだヨーロッパの実存哲学を基礎としつつ、日本的な文芸や情緒、そして「偶然性」の問題を論理的に究明した哲学論文集。
1941年、九鬼周造は53歳の若さでその生涯を閉じました。
京都・法然院にある彼の墓碑には、若き日に愛したゲーテの詩『旅人の夜の歌』の一節が、盟友・西田幾多郎の筆によって刻まれています。
見はるかす 山の頂
梢には 風も動かず 鳥も鳴かず
まてしばし やがて汝(なれ)も休(やすら)はん
(現代語訳)
すべての山々の頂は安らぎ
すべての木々の梢には 風のそよぎも感じられない
小鳥たちは 森の中で 黙している
しばし待つのだ もうすぐ
君にも 安らぎがやってくる
波乱万丈な運命と複雑な家庭環境、そして激動の知的探求を生きた彼に、ようやく訪れた永遠の安らぎ。この詩は、そんな彼の人生を象徴しているかのようです。
次回は、いよいよ名著『「いき」の構造』の具体的な内容に入り、彼がどのように日本の「いき」を分析したのかを読み解いていきます。
それでは、また次回の講義でお会いしましょう。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
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