
『「社会問題の核心」を読む』《前編》
著:高橋巖
皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。今週は、日本におけるシュタイナー研究の第一人者、高橋巖氏の『社会問題の核心を読む シュタイナー社会論入門②』をご紹介します。
『『社会問題の核心』を読む』著:高橋巖版元:春秋社(2024年)
【目次】
第一講 私たちが変わると社会が変わる
第二講 グローバリゼーションの行方
第三講 現代人の精神生活
第四講 神智学と社会問題
第五講 社会の根底にある日本文化第六講 日常生活の精神化
孤独と共同体
あとがき
この本は、前回ご紹介した『社会の未来を読む シュタイナー社会論入門①』の続編にあたります。『社会の未来を読む』は、シュタイナーの講演録『社会の未来』を高橋氏が解説したものでした。今回ご紹介する本書は、シュタイナーの著作『社会問題の核心』について、高橋氏が講演会で解説された内容をまとめた一冊です。春秋社から出版されています。
第一次世界大戦後のヨーロッパとシュタイナーの挑戦
シュタイナーの著書『社会問題の核心』は、『社会の未来』と対になる重要な著作です。執筆された1919年は、第一次世界大戦が終結した直後にあたります。ヨーロッパは著しく荒廃し、とりわけ敗戦国となったドイツは深刻な状況にありました。
この荒廃したヨーロッパをいかに立て直すのか。近代的な価値観が行き詰まりを見せる中、社会の再生の道筋をシュタイナーが論じたのがこの本です。
『社会の未来』が一般の聴衆に向けた連続講演であったのに対し、『社会問題の核心』は、シュタイナーが自身の認識論を踏まえ、それをいかに現実社会に適用していくかを体系的に論じた、彼の社会論の主著と言えます。
社会有機体三分節論と二つの中心テーマ
『社会問題の核心』の中心思想は、「社会有機体三分節論」と呼ばれています。これは、社会を一つの有機体(生命体)として捉える視点です。シュタイナーは、社会が「精神生活」「法生活」「経済生活」という3つの領域から成り立っており、それぞれが自立しつつも、相互に作用し合うことで健全に機能すると唱えました。
この社会有機体三分節論を展開する上で、シュタイナーは二つの中心的なテーマを論じています。
第一のテーマは、社会の土台は経済生活ではなく「精神生活」である、ということです。
第一次世界大戦前後、ヨーロッパは経済危機や金融恐慌に見舞われていました。しかしシュタイナーは、真の文明の危機は経済にあるのではなく、むしろ「精神の危機」こそが根本的な問題なのだと主張します。その精神の危機がどのようなものであり、いかに私たちがそこから脱却するのかを論じています。
第二のテーマは、「社会意志」です。私たち一人ひとりが持っている社会に対する意志を、人類全体の社会意志としてまとめ上げ、それに基づいた社会思想を構築しなければならないという主張です。
シュタイナーの構想は独特です。まず、一人ひとりの内面にある社会像を互いに提示し合い、様々な調整(ここには法生活が深く関係します)を経て、一つの大きな人類全体の社会意志へと統合していく。個人の社会意志から人類全体の社会意志へ、いかにして到達するか、その形成過程を彼は非常に重視しました。
魂の故郷を喪失した時代
では、『社会問題の核心』の背景には、どのような時代認識があったのでしょうか。
シュタイナーが指摘するのは、現代・近代という時代は、一人ひとりの魂が自らの拠り所を見失っている状況だということです。19世紀から20世紀にかけては「故郷喪失の時代」とも呼ばれますが、まさに私たちの魂の拠り所が失われている時代なのです。
その原因は、産業革命や科学革命以降、機械論的な世界観が支配的になったことにあります。「世界は物理的な法則によって支配されており、そこに目に見えない魂は宿っていない」という見方が広まると、私たちは大いなる存在や他者との繋がりを感じられなくなります。その結果、人々は孤独な魂を抱えるようになりました。これこそが第一次世界大戦後のヨーロッパの精神状況だとシュタイナーは診断します。
生命としての社会への「受肉」
しかし、シュタイナーは、私たちが帰属すべき場所は本来「社会」なのだと語ります。そして、その社会とは、単なる法制度や政治機構のことではありません。そうではなく、一人ひとりの人間が集合した「生命としての社会」を指しています。これが社会有機体説における「有機体」の意味するところです。
シュタイナーは「社会こそ生きた身体である」と述べ、私たち一人ひとりの魂は、その社会という身体に「受肉」(魂が宿ること)するはずだと考えました。ところが、現代人は社会という身体にうまく受肉できず、魂が浮遊し、帰る場所を失ってしまっていると指摘します。
事態はさらに深刻化しています。帰るべき拠り所がないことを寂しいと感じる段階すら超え、私たちはそもそも帰るべき身体(社会)そのものを求めなくなっているというのです。社会から孤立して生きることが当然となり、魂のふるさとを必要としない。こうしたニヒリズムが、すでに20世紀初頭には深く進行していたのです。
営利主義の蔓延と人間の尊厳
では、なぜそのような事態に陥ったのでしょうか。その大きな理由の一つは、あらゆるものが商品化される時代になったからだと指摘されます。
モノだけではなく、私たちの「労働」も商品化されました。人間の時間は賃労働という形で商品として売買されています。あるいは、文化的な活動や他者への配慮なども、サービスという名目で商品として取引される時代です。
社会全体が商品化の波に覆われた時、支配的になる原理は「営利主義」です。営利主義の下では、利潤の追求が最終目的となり、他の全てがその手段として扱われます。人間の生命や他者への思いやりまでもが、利益を生み出すための手段と化してしまう。これは、本来重要であるはずの価値が逆転した状況です。
営利主義が蔓延する社会の中で、私たち一人ひとりの人間の尊厳や、魂の自由、精神生活は果たして維持できるのか。『社会問題の核心』というタイトルの意味は、まさに「営利主義が支配する世の中で、私たちが尊厳を持って生きることができるのか」という問いかけなのです。それは決してお金の問題ではなく、私たちの精神が自由であるか、真に求める社会に受肉できているか、という点が問われているのです。
「社会意志」とは何か?―内なる社会への目覚め
この問題意識に基づき、シュタイナーは「社会意志」の重要性を説きます。社会意志とは何でしょうか。
それは、既存の社会に私たちが「いかに適応するか」を考えることではありません。既存の社会を前提とし、それに適応する方法を学ぶのが、一般的な教育です。それは、うまく生きていくための訓練であり、自分の内面の奥深くにある「あるべき社会像」を引き出すことではありません。
シュタイナーの言う社会意志は異なります。それは、「私の中の社会」、すなわち私たち一人ひとりが内面に抱いている独自の社会観に目覚めていくことです。
そのためには、自分が社会に対して抱いている根源的な要求に気づくことが第一歩です。私たちは普段、社会に対する切実な要求に蓋をしています。なぜなら、それが表面化すると、今の社会に対する違和感ばかりが募ってしまうからです。まずは、そうした要求が自分の中にあるのだと認識することが重要です。
社会改革の担い手は誰か
私たちは、内なる社会意志に蓋をし、既存の社会に合わせて生活しています。しかし、シュタイナーの時代は、第一次世界大戦によってヨーロッパ社会が崩壊し、大きな転換期を迎えていました。
そのような時代は、確かに困難な状況ですが、見方を変えれば、自分たちの手で社会の未来を構築できるチャンスの時代でもありました。
そして、社会を切り開く主体は、政治家や経済界の重鎮といった指導者層ではありません。名もない個人としての私たちが、自らの社会意志に基づいて社会を改革していくことこそが重要なのだと、シュタイナーは説きます。社会改革の真の担い手は、一人ひとりの個人の内的な社会意志なのです。
根本にある「精神生活」の危機
さきほども言いましたように、社会の担い手である私たちが取り組むべき最も重要な課題は、経済生活ではなく、その根本にある「精神生活」です。シュタイナーは精神生活が危機に陥っていると述べますが、具体的に何を指すのでしょうか。
ここで彼は、「精神生活」という言葉の定義に注意を促します。ここで言う「精神」とは、私たちの日常と切り離された、何か理想化された精神世界のことではない、と。
そうではなく、日々の暮らしの中で実感されている精神世界のことです。シュタイナーはそれを「生活内容になった精神性」とも呼びました。人生の課題に応え、魂の要求を満足させてくれるような世界観を形成する精神性。これこそがシュタイナーの言う精神生活です。
概念ではなく「表象」としての精神
この点を深く理解するために、シュタイナーは「概念」と「表象」を区別して論じています。
「概念としての精神」とは、客観的で普遍的な言葉、いわば記号です。辞書の定義のように、誰にとっても同じ意味を持ちますが、個人の切実な実感とは隔たりがあります。概念化は重要な知的営みですが、一度概念化されると、その言葉は流通する記号となり、自分自身の生きた精神とは切り離されがちです。
シュタイナーが重視する精神生活とは、この抽象化された精神ではなく、「表象としての精神」です。表象とは、概念化される以前の、非常に個人的で切実なイメージや感情であり、本来は言葉になる前のものです。
したがって、精神生活とは、何か高尚な理想ではなく、自分自身の内面の奥深くに眠っている、生きた実感こそを指すのです。
社会への「違和感」が出発点
シュタイナーは、社会問題への取り組みは、自分たちの内側から湧き上がる要求、すなわち「違和感」から始まると語ります。
社会に対して違和感を感じた時、私たちは往々にして「違和感を感じる自分が悪いから、感じ方を変えよう」と考えがちです。しかし、シュタイナーはその逆を説きます。
この違和感こそが、自分の内的な社会意志につながる重要な手がかりなのです。「なぜ自分はこの社会に対してこのような違和感を抱くのだろう」という問いが、蓋をしていた社会意志を解き放つきっかけとなります。社会に対して強い違和感や切実な要求を感じている人こそが、社会問題に取り組む主体となり得るのです。
これは、指導者がトップダウンで社会を改革するというアプローチとは全く異なります。指導者は、利害調整や経済的な改革はできるかもしれません。しかし、シュタイナーが指摘する精神生活の危機を克服するような改革は、一人ひとりの内なる社会意志が表出しなければ不可能です。その意味で、この社会問題を改革できるのは、私たち一人ひとりしかいないのです。
教育の役割――精神の解放
私たちが自らの内的な社会意志に出会い、それを社会に向けていくためにはどうすればよいのでしょうか。そのための重要な方法の一つが「教育」です。
シュタイナーにおける教育の目的は、自分自身の内的な社会意志に出会うことです。既存の社会にいかに適応するかを目的とする一般的な学校教育とは、方向性が逆です。
シュタイナーの教育思想に共通するのは、私たち一人ひとりの精神生活を、国家の統制や経済の要請から解放していくことです。「この社会でどうやって上手く立ち回ろうか」「どうやってお金を稼ごうか」という発想そのものが、すでに国家や経済に精神が依存している状態だとシュタイナーは考えます。
社会に「適応する」のではなく、自分の存在そのものから湧き出る意志に出会うこと。それにはまず、国家や経済から精神が自由になる必要があり、その手助けをするのが教育の本質です。
主体性と社会への貢献
シュタイナーの教育に関して、ここで2点指摘しておきます。
第一に、徹底して主体的に考えることの重要性です。受動的ではなく、能動的な態度を育むことが求められます。
第二に、社会のために役に立つことに喜びを感じる感情を育てることです。ここで言う「社会」とは、必ずしも既存の社会体制のことではなく、自分自身が理想とする公共性のことです。
言い換えれば、自分自身を超えた何か大いなる理想に、自分の人生を捧げることに喜びを感じるような感性を育むことです。利己的に自己利益のみを追求するのではなく、自分自身と、自分を超えた大いなるものとの繋がりを大切にすること。それこそが人間の持つ本来の社会性なのです。
「社会に対して役に立つ」という時の「社会」がどのようなものであるかを、一人ひとりが発見し、出会っていくこと。シュタイナーは、このような視点から、私たち一人ひとりを起点とする社会論を展開していきます。
今回は第一部として、本書の前半部分をご紹介しました。次回は、この続きをお話ししたいと思います。
本書は、この難解なシュタイナーの著作を高橋巖氏が解説したものです。主に2010年に約1年間にわたって行われた連続講演会の内容が文字起こしされています。さらに付録として、2022年に行われた「孤独と共同体」という講演も収録されています。高橋先生は2024年にお亡くなりになりましたが、残された貴重な講義録が現在、春秋社から全3巻のシリーズとして刊行されています。
中編はこちら
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