『美の法門』《中編》
柳宗悦(著)
皆さん、こんにちは、 アトリエシムラの志村昌司です。今回は、柳宗悦『美の法門』の中編として、その思想の根本にある「無有好醜の願」についてお話しします。
【目次】
『美の法門』
『無有好醜の願』
『美の浄土』
『法と美』ほか2編
柳宗悦と『大無量寿経』
「無有好醜の願」は、『大無量寿経』の中に説かれている誓願の一つです。柳が非常に重視したこの『大無量寿経』は、浄土教の根本聖典である「浄土三部経」の一つにあたります。浄土三部経は、『大無量寿経』、『観無量寿経』、そして『阿弥陀経』から成る経典群です。日本では、浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞がこれらの経典を深く信奉したため、現在に至るまで非常に重要な位置を占めています。
前回もお話ししましたが、柳が富山県の城端(じょうはな)別院に滞在していた時、『大無量寿経』を読み返す中でこの「無有好醜の願」のくだりに出会い、深い感銘を受けました。そして、自らが展開してきた民藝美学の根底には、この『大無量寿経』の思想があることに気づいたのです。
大乗仏教運動と民藝運動の重なり
では、なぜ柳は『大無量寿経』にそれほど惹かれたのでしょうか。それを理解するには、この経典が成立した背景を知る必要があります。
『大無量寿経』は、紀元前1世紀頃から北西インドで起こった「大乗仏教運動」の中で成立しました。仏教自体の成立は紀元前5〜6世紀頃と言われています。その頃の初期仏教は、基本的に個人の解脱、いわゆる「自力」によって自分自身が悟りを開くことを目指すものでした。出家主義であり、非常に厳しい戒律を守って修行に励むことが求められました。
しかし、時代が下るにつれ、仏教は様々な宗派(部派仏教)に分かれていきます。その過程で、教義が専門的になりすぎる、あるいは一部のエリートしか救われないのではないか、といった批判が生まれてきました。そこで、より万人に開かれた仏教を目指す運動として、大乗仏教運動が起こったのです。
この運動の中で、自力による修行だけではなく、「他力」、そして他者をも救済しようとする考え方が強調されるようになりました。全ての生きとし生けるもの(衆生)を悟りに導こうとする「菩薩)」の理想を掲げたのが特徴です。「自力から他力へ」という転換であり、「一切衆生済度」という普遍的な救済を目指すのが大乗仏教の精神です。
柳は、この大乗仏教の「万人を救う」という思想に、あらゆる民衆の生活の中に美を見出す自らの「民藝運動」が重なって見えたのです。一部の天才による美ではなく、民衆の日常に宿る美を救い上げようとする民藝運動は、思想的な構造において大乗仏教運動と深く共鳴していたと言えるでしょう。
阿弥陀仏の四十八願と他力本願
さて、『大無量寿経』にはどのような物語が説かれているのでしょうか。中心となるのは、阿弥陀仏がまだ悟りを開く前の「法蔵菩薩」だった時のエピソードです。
法蔵菩薩は、一切の衆生を救済するために四十八の「誓願」(四十八願)を立てます。「これらの願いがすべて叶わなければ、私は決して仏にならない」と誓い、気の遠くなるような長い時間修行を重ね、ついに誓願を成就して阿弥陀仏となりました。
四十八願の中で特に重要とされるのが「第十八願」です。これは、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱える者は必ず極楽浄土に往生できる、という「念仏往生」の思想が説かれている願です。どんな人であっても、念仏を唱えさえすれば必ず救われるという、徹底した他力の思想がここに示されました。
それがいわゆる「他力本願」です。「他力」の思想とは、衆生が自らの修行や努力(自力)によって悟りを開くのではなく、阿弥陀仏が成就した「本願の力」(これを他力と言います)を信じ、その名号である「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依します、の意)と唱えることによって救われる、という考え方です。
第四願「無有好醜の願」
この第十八願が『大無量寿経』の中心的な教えとなりますが、柳が特に心を惹かれたのは、「第四願」とされる「無有好醜の願」でした。
この無有好醜の願とは、どのような誓願だったのか。経典にはこう記されています。
「たとい我、仏を得んに、/ 国の中の人天、/形色(ぎょうしき)不同にして / 好醜あらば / 正覚(しょうがく)を取らじ」
これは、「もしも私が仏となる際に、私の仏国土(浄土)の人々や天人たちの姿・形が異なっていることによって、好ましいもの(好)と醜いもの(醜)という差別が存在するならば、私は決して正しい悟りを開いて仏とはならない」という意味です。つまり、仏の国においては、どのような姿形であっても、好ましい・醜いという差別は存在しない、と宣言しているのです。
ここで柳は、独自の解釈を加えました。経典にある「好醜」(好ましいものと醜いもの)という言葉を、「美醜(びしゅう)」と読み替えたのです。
この美学的な観点への読み替えによって、「仏の国においては美と醜という絶対的な区別・対立は存在しない」という思想を導き出し、これを民藝美論の根底に据えました。柳の仏教美学は、この大胆な読み替えから始まったと言えます。
「凡夫成仏」から「凡器成美」へ
この解釈は、どのように民藝の論理に展開していくのでしょうか。「万民が救済される」という論理が、「万物が美しくあり得る」という論理へと移行していくのです。
浄土思想には、どんな人でも煩悩を抱えた「凡夫」のままで仏になることができるという「凡夫成仏」の考え方があります。この考え方を物の世界、美の世界に適用すると、たとえ無名の工人が作った日用の雑器(凡器)であっても、そのままで美しくあり得る(成美)、という考え方につながります。
柳はこれを「凡器成美」と呼びました。無名の工人たちが生活のために作った雑器になぜ美が宿るのか。その根拠が、この「無有好醜の願」にあると考えたのです。
この考え方は、他力本願の思想とも深く結びついています。他力の思想に基づけば、個人の才能や意識的な創作行為(自力)は、むしろ美の成就から遠ざかることになります。そうではなく、大いなる存在や自然の摂理に制作の身を委ね、ありのままの心で生み出すという境地になって初めて、ものは真の美に近づき得るのです。
注意すべきは、これは「誰が何を作っても美しくなる」ということではない点です。柳は「物が美しくならざるを得ない道」という表現を使っていますが、その「道」――すなわち他力や自然の摂理――に従ったものだけが、美を宿すことができるのです。
このようにして、柳は「凡夫成仏」から「凡器成美」へと、思想を展開していきました。
美醜の対立を超えた「真如の世界」
柳は、美とは何かということについて、優れた芸術家が作ったものだけが美なのではなく、「ありのままの世界」を写し取ったものが真の美なのだと考えました。この「ありのままの世界」を仏教では「真如(しんにょ)」と言います。
私たち一人一人には仏性が宿っており、真如の世界においては、誰もが、そして何物もが、ありのままで美しい存在です。ですから、私たちが作為を捨て、本来のありのままの心の状態に戻ってものづくりをすれば、それは自然と真理を宿し、美しくなるのだ、という論理です。
「すでに」実現している美の世界
では、私たちは、いかにしてその美醜の対立を超えた世界に到達できるのでしょうか。
ここで重要なのは、『大無量寿経』の物語の時間設定です。法蔵菩薩は気の遠くなるような修行の結果、すでに阿弥陀仏として成仏しています。ということは、美醜の対立がない仏国土、すなわち浄土は、すでに存在しているということになります。
この観点に立つと、美醜以前の世界というのは、将来実現されるべき理想郷ではなく、「すでに」この瞬間において成就され、存在しているということになります。これが非常に大事な点です。
この美醜の対立のない「不二(ふに)の世界」は、私たちが気づいていないだけで、すでに実現している。そうであれば、今ここで私たちの意識が変われば、その不二の世界に触れることができるはずです。
柳はこう言っています。
「既にその正覚を取った(仏になった)というからには、この事実はもはや動かすことが出来ぬ。至極の性には相対する質がない。一切のものはその仏性においては、美醜の二(対立)も絶えた無垢のものなのである。この本有の性においては、あらゆる対立するものは消えてしまう。…ここで美の法門は何を説き何を知らせようとするのか。美醜を超えたその本性に居れば、誰だろうと何ものであろうと、救いの中にあるのだと教えるのである。」
この最後の部分が核心です。「美醜を超えた本性」にあれば、「誰であろうと」(凡夫成仏)、「何者であろうと」(凡器成美)、救いの中にあるのだ、と。
永遠の「今」に達成される救済
ですから問題は、いかにしてその「すでに達成された」真如の世界に気づくのか、悟るのか、ということになります。
柳は、この美醜を超えた救済について、「今も生きつつある正覚」なのだと言います。これは、過去のある時点で完了した歴史的な事実を指しているのではありません。むしろ、人間の時間の流れを超えた「久遠(くおん)」、すなわち「永遠の今」という層において、常に達成され、成就され続けている悟りなのだ、と言うのです。
私たちは、この現世の時間の流れから、この「久遠の層」の時間にアクセスする必要があります。その視点に立てば、もし私たちがその「悟り」に気づけば、本来の美醜の対立に苦しむことのない、完全な救いの中に置かれることになります。柳が言うように、私たちは「実は救われているのに苦しんでいる」のです。
問題は、救済が実現されているかどうかではなく、この絶対的な救いという事実に、私たちが気づくかどうかだけにかかっているのです。(ここで「阿弥陀仏」という特定の仏様の名前が出てきますが、これを「絶対的な大いなる存在」と読み替えることも可能でしょう。)
近代人の苦悩と「分別」
では、なぜ私たちはこの「すでに存在する」美醜以前の世界に気づけないのでしょうか。柳は、ここに近代人の苦悩があると考えます。
第一に、私たちは明治維新以降、西洋の科学的・実証的な考え方に強く影響を受けました。『大無量寿経』が説くような目に見えない世界、信仰の世界に対して、「証拠」を要求するようになったのです。
しかし、目に見えない世界に科学的な証拠はありません。実証主義的な考え方に立つと、宗教的な真理は「科学ではない」(西洋的に言えば「形而上学」)として切り捨てられがちです。目に見える証拠のあるものだけを信じる近代人のメンタリティを、柳は深く憂いました。
第二の、そしてより根本的な壁は、知性による「分別」の問題です。
私たちが何かを認識しようと知的な働きを行うと、必ず「分別」をします。分別とは、ありのままの世界を、私たちが認識のフィルターを通し、ある種の「型」にはめて理解することです。
柳は、この分別についてこう言っています。
「美醜というのは人間の造作に過ぎない。分別がこの対辞を作ったのである。分別する限り美と醜とは向かい合ってしまう。そうして美は醜ではないと論理は教える。それはどうしても矛盾する二つのものだと言う。」
私たちが認識するということは、評価や価値判断をすることにつながります。「これは美しい」「これは美しくない」というように、必ず比較し、評価してしまいます。本来のありのままの世界においては、それぞれがそれぞれの美を宿しているはずなのに、私たちの認識(分別)がそれを歪めてしまうのです。
柳によれば、このように物事を分析し、概念化して分別していく近代的な知性のあり方、そして美と醜、善と悪といった対立する価値の中で物事を捉えること自体が、近代人の「病」であり、私たちが救済から遠ざかる原因なのです。
「美醜以前」の根源的な世界へ還る
そうなると、私たちはこの分別というものを超えるか、あるいは分別が生じる以前の世界に戻っていく必要があります。
西洋的な発想であれば、二元論を統合する、より高次の「メタな論理」を構築しようとするかもしれません。しかし柳の発想は、論理によって「超越していく」ことではありませんでした。むしろ、分別という知的な働きが生じる以前の根源的な世界に「戻っていく」「還(かえ)る」という方向性を重視しました。
柳は言います。
「求めるところは美醜已前の世界なのである。そういう境地があるのみならず、元来は何ものもそれを本性としていることが説かれているのである。已前とは未生の意である。本性はその未生にある。」
この「以前」とは「未生(みしょう)」のことだと柳は説明します。「未生」とは、分別や対立が生まれいずる以前の、絶対無差別の境地のことです。私たちの本性は、その「未生」にある。だからこそ、その世界に戻るべきだ、という発想なのです。
論理を超えた「直観」
では、この対立が生まれる以前の「未生」の境地に、私たちはいかにして達するのでしょうか。
分析的な知性や言語による論理では、そこにはたどり着けません。言語や概念は抽象化された世界であり、「ありのままの世界」との間には断絶があります。柳は、言語ではなく、むしろ「直観(ちょっかん)」(物事の本質を直接的に捉える働き)によって、この美醜以前の世界にアクセスできると考えました。
直観が働くのは、「無心の境地」あるいは「無我の心」の状態です。例えば、私たちが携わる染織の世界でも、手織りをしている時に、だんだんとこだわりがほぐれ、機(はた)と自分が一体になる瞬間に、この無心の境地を感じることがあります。自我の意識が溶けていく時、それが柳の言う無心の境地に近づくことなのかもしれません。
柳の実践として有名なのが、日本民藝館の展示室において、キャプションを意図的に最小限にしていたことです。現在では、どの美術館でも充実した説明があり、作品理解が進むという利点があります。しかし一方で、それによって「分別心」が働き、作品を頭で理解しようとしてしまう側面もあります。
柳はその懸念から、民藝館では作品にほとんど説明を添えませんでした。それは、「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」が大事であり、まず自分の直観を働かせるべきだ、というメッセージです。
作品を客観的な対象として分析・判断するのではなく、作品の世界に自分が没入し、融合するような体験。そのように自分の直観で作品と向き合うことこそが、「美醜以前の根源的な美」に触れる道であると、柳は私たちに示してくれたのです。
今回はここまでとします。次回は、『美の法門』の後編として、全体の締めくくりのお話をしたいと思います。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
主に文化、芸術、思想に関連する書籍を取り上げます。
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