『青い花』(中編)

『青い花』(中編)

ノヴァーリス(著)

皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。

「今週の読書」、今回は前回に引き続き、18世紀末のドイツ初期ロマン主義を代表する詩人、ノヴァーリスの最高傑作『青い花(原題:ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン)』(Heinrich von Ofterdingen, 1802)についてお話しします。

* ハインリヒ・フォン・オフターディンゲンはヴァルトブルクの歌合戦伝説に登場する詩⼈の名前である。

ノヴァーリス(著)『青い花』
版元:岩波書店 1989年出版

 

わずか28歳で夭折したノヴァーリスが遺したこの未完の長編小説は、彼の文学と哲学の集大成とも言える作品です。合理主義的な啓蒙思想が支配的だった時代において、精神と自然、有限と無限といった、近代以降二元的に分断されてしまった世界を、詩的想像力によって再び融合しようとするロマン主義的衝動が、その背景には流れています。

本日は、物語の全体構成や象徴的な意味、そしてノヴァーリスが目指した「魔術的観念論」の世界について読み解いていきます。


1. 「期待」の構造:内面への旅と無限への憧憬

物語は、第一部「期待」と、未完の第二部「実現」の二部構成となっています。

第一部では、主人公ハインリヒが旅を通じて詩人へと覚醒し、自己を形成していく「成長の軌跡」が描かれます。

象徴としての「青い花」

物語は、20歳のハインリヒが見る不思議な夢から始まります。夢に現れる「青い花」は、単なる植物ではありません。それは、我々の手が届かないもの、あるいは無限なるものへの憧れを象徴しています。

父との対話の中で、この花は物質的な世界の背後にある「より高次の存在」へと至る通路であることが示唆されます。

ノヴァーリスにとって「青」は精神性や天空、内面世界を表す特別な色でした。これは、私たちアトリエシムラが扱う日本の「藍」が持つ深い精神性とも通底するものがあります。

普遍的言語としての詩

ハインリヒは故郷アイゼナハを離れ、母方の祖父が住むアウグスブルクへと旅立ちます。この旅のプロセスこそが、彼が「詩の本質」を理解していく過程となります。

道中では、古代ギリシャの詩人アリオンの伝説や、十字軍の騎士たちの物語が語られます。特に第四章の「サラセンの乙女の歌」のエピソードは重要です。敵対する関係にある異教徒であっても、故郷を想い、愛する人を失う悲しみを持つ同じ人間であることが、歌を通じて示されます。ここでノヴァーリスは、詩(ポエジー)には宗教や文化の壁を超え、人間の根源的な感情を伝え合う普遍的な力があることを浮き彫りにしています。

鉱山と「相応(コレスポンダンス)」

第五章で一行は鉱山を訪れます。ここには、フライベルク鉱山大学で自然科学を学び、実際に鉱山監査官を務めたノヴァーリスの知見が反映されています。

近代的な合理精神では、自然は資源採取や経済的利益の対象と見なされがちです。しかし、ロマン主義者にとって自然は、生命力と神秘に満ちた「生きた有機体」なのです。暗く入り組んだ坑道を進むことは、単なる鉱物採取ではなく、人間の無意識や深層心理を探求する旅のメタファー(隠喩)となっています。

「人間の内面を探求することは、宇宙の内面を探求することに等しい」。自然という巨大な有機体と、人間の内面世界がお互いに響き合う関係――これを「相応(コレスポンダンス)」と呼びます。


2. 「詩人」から「魔術師」へ:魔術的観念論の展開

アウグスブルクに到着したハインリヒは、詩人クリングゾール(ゲーテを理想化した人物とされる)と出会います。彼との対話の中で、「詩とは単なる感情のほとばしりではなく、冷徹な悟性と知識に裏打ちされた厳格な技術である」という、非常に興味深い詩論が展開されます。

ここで語られる言語観は、当時の常識を覆す独創的なものでした。少し詳しく解説しましょう。

通常、私たちは言葉を「現実を指し示すための道具」だと考えがちです。「リンゴ」という言葉は、目の前の赤い果実を説明するためにある、というように。言葉は現実の「コピー」や「影」に過ぎないという考え方です。 しかし、ノヴァーリスは違いました。彼は、言葉を「符号と音声からなる一つの小世界(ミクロコスモス)」であると定義しました。

どういうことかと言いますと、彼は言葉を「数学」や「音楽」と同じように捉えていたのです。 数学者が数式を使って宇宙の真理を表すように、あるいは音楽家が音の組み合わせだけで感動的な世界を作り出すように、言葉もまた、現実の模倣ではなく、それ自体の響きやリズム、法則によって、新しい世界を構築する力を持っていると考えたのです。

この考え方は、私たち人間に大きな可能性をもたらします。 もし詩が「現実を写し取る技術」であるなら、詩人は選ばれたごく一部の人間に限られます。しかし、言葉そのものに世界を生み出す創造的な魔力が宿っているのだとしたらどうでしょう? 私たちは皆、生まれながらに「言葉」を持っています。つまり、言葉を話す人間は誰しも、世界を新しく創造するための魔法の杖を、すでにその懐に持っていることになるのです。

これが、「誰もが潜在的に詩人である」という思想の根拠です。 特別な誰かだけが詩人なのではありません。私たち一人ひとりが、自分の中に眠る言葉の力に目覚め、その力を使って、退屈に見える日常や世界を生き生きとしたものへと再構築(ロマン化)すること。それこそが、ノヴァーリスが目指した「魔術的観念論」の入り口なのです。


未完の第二部「実現」

第二部では、ハインリヒは「詩人」からさらに高次の存在である「魔術師」へと変容することが予兆されていました。

詩人が世界の意味を直観し表現する存在であるのに対し、魔術師は内なる意志によって世界そのものを能動的に作り変え、変革していく存在です。

隠者ジルヴェスターとの対話において、ハインリヒはこう問いかけます。

「でも、いつになったら、恐怖や、苦痛や、貧困や、悪が、この宇宙万有に不要なものとなるでしょうか」

これに対しジルヴェスターは答えます。

「たったひとつの⼒̶ 良⼼の⼒̶ があればいい」

ノヴァーリスは、哲学者ヘムステルハイスの「道徳的器官」という概念に影響を受けていました。彼は、人間に備わる「良心」こそが宇宙の調和的秩序と直結し、世界を救済・変革する根源的な力(魔術の源泉)になると考えたのです。


3. クリングゾールのメルヒェン:カオスからの創造

第一部のクライマックスである第九章には、「クリングゾールのメルヒェン」と呼ばれる長大な物語が挿入されています。ノヴァーリスにとってメルヒェン(おとぎ話)は、単なる空想話ではなく「ポエジーの正典(カノン)」であり、理性を超えた人間の精神全体を表現する高次の形式でした。

彼は『一般草稿』の中で次のように述べています。

「メルヒェンはいわばポエジーのカノン(基準)である ̶  詩的なものはすべてメルヒェン⾵でなければならない。」

「真のメルヒェンでは、いっさいが不思議で̶̶ 謎に満ち、脈絡がなく̶̶ いっさいがいきいきとしていなければならない。どれもが異なった仕⽅であらわれなければならない。…メルヒェンの世界は、真実の世界(歴史)とはまったく対⽴する世界であり̶̶ まさにそれゆえに、それとまったくよく似ているのである̶カオスが完成された創造に似ているように。」

ここでの「カオス」とは、無秩序ではなく、万物が生まれる以前の「あらゆる可能性を含んだ創造の源泉」を意味します。

世界の再生と運命の書き換え

このメルヒェンでは、合理主義的な悟性の象徴である「書記」が支配し、生命力が失われた世界を、「詩(ファーベル)」と「愛(エロス)」が救うという構造になっています。

物語の中で、書記の一派によって「母(心)」は捕らえられ、火刑に処されてしまいます(これは合理主義による感情の抑圧を象徴しますが、後に彼女は灰から再生します)。

世界を救う鍵となるのが、娘のファーベル(詩)です。彼女は地下世界へ降り、運命の三女神(モイライ)と対話します。ファーベルはタランチュラ(情熱の象徴)を用いて女神たちを踊らせ、運命の糸を紡ぐ作業に介入します。これは、決定論的な運命(経糸)に対し、詩的な自由(緯糸)を織り込むことで運命を書き換える行為の隠喩です。

最終的に、ファーベル(詩)とエロス(愛)の活躍により書記は追放され、天上の叡智(ゾフィー)が戻り、世界に「永遠の春(黄金時代)」が訪れます。


おわりに

ノヴァーリスは『青い花』を通して、私たち人間に備わっている「詩心」と「良心」の力を説きました。

世界を単なる物質や経済的対象として見るのではなく、内なる想像力と愛によって世界を「ロマン化」し、変革していくこと。未完の物語が現代の私たちに問いかけているのは、そのような創造的な生き方の可能性なのかもしれません。

 

次回は『青い花』の後編をお届けします。ご視聴ありがとうございました。

志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
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