
『社会の未来』を読む』《前編》
著:高橋巖
皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。 今週は、高橋巌さんの著書『「社会の未来」を読む シュタイナー社会論入門』の第1巻をご紹介します。本書は2021年に出版された3巻本の第1巻で、「シュタイナー社会論」について考えるための入門書です。
『『社会の未来』を読む』
著:高橋巖
版元:春秋社(2024年)【 目次 】
第一講 精神の問題としての社会論
第二講 経済生活――労働の価値
第三講 法生活――社会感覚の共有
第四講 精神生活――自由と個と沈潜
第五講 精神と法と経済の調和に向けて
第六講 国民生活と国際生活
著者の高橋巌先生は昨年お亡くなりになりましたが、長年にわたり日本の人智学運動を牽引してこられた方です。また、日本のシュタイナー研究の第一人者であり、ヨーロッパの思想であるシュタイナーを、ご自身のものとして日本に根付かせた思想家であると私は考えています。研究者という側面以上に、一人の思想家としての印象が強い方です。
この『シュタイナー社会論入門』は、高橋先生の講演をまとめたものです。先生は、シュタイナーの著作の翻訳をされる一方で、その内容を基にした講座や講演会を何十年にもわたって開催されていました。翻訳作業そのものが先生の思想的な営みであり、その訳書は、講座や講演会の参加者との共同作業の中から生まれてきた側面もあったのかもしれません。
現代社会を予見した思想家、ルドルフ・シュタイナー
ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は、オーストリアの思想家です。第一次世界大戦を経験し、まさに21世紀が直面する問題を鋭く先取りしていた人物と言えるでしょう。彼の思想は「人智学(アントロポゾフィー)」という思想体系として知られています。
シュタイナーは大学で教鞭をとる学者というより、生涯を通じて講演活動を行った人物でした。その数は何千回にも及び、ドイツで刊行されている全集は何百巻にもなりますが、いまだ完結していないと聞きます。それほど膨大な思想家であり、同時にその思想は非常に難解です。
シュタイナーの難解さは、ドイツ観念論のそれとは異なり、精神世界や神秘主義的な思想を含むため、イメージしにくいという側面に起因します。ある程度の想像力がなければ、彼の言葉を理解することは困難です。しかし、高橋先生は、その難解なシュタイナー思想を非常に分かりやすく解説してくださいます。シュタイナーの原著を読むことはもちろん重要ですが、高橋先生の著作を通して、一つの「日本的なシュタイナーのあり方」を知ることができるのではないかと考えています。
本書『「社会の未来」を読む』は、シュタイナーが1919年、第一次世界大戦終結直後に行った講演をまとめたテキスト『社会の未来』を基にしています。第一次世界大戦は、ヨーロッパ社会に計り知れないインパクトを与え、ヨーロッパ文明そのものへの大きな見直しの機運を生みました。ヨーロッパが掲げてきた理想が破綻したこの時期に、荒廃した社会をいかにして再建すべきか。その問いへの応答として行われたのが、この講演でした。
『社会の未来』の大きなテーマは、「社会有機体三分節化の思想」です。社会を一つの有機体として捉え、それが「経済生活」「法的生活」「精神生活」という三つの系統に分節化できるとシュタイナーは説きました。この100年前の提言を、現代の視点から読み直したのが高橋先生の本書なのです。本書の帯には、この社会有機体三分節化の思想が、現代のベーシックインカム論にも影響を与えていると記されており、第一次大戦直後の思想が現代にどう繋がるのか、非常に興味深い点です。
人類の精神史と「一切の価値の転換」
本書の冒頭で、高橋先生はシュタイナーによる人類の精神史の区分について論じています。シュタイナーによれば、人類の精神の発達史は三つの段階に分けられます。
第一の段階は、伝統の時代です。ヨーロッパにおいては、キリスト教的な道徳・倫理観が社会を支配していた中世がこれにあたります。 しかし、19世紀後半(1870年代頃)、ニーチェが言うところの「一切の価値の転換」が起こります。これは、キリスト教的な伝統社会から、多様な思想や価値観が生まれる、第二の段階である「自由の時代」への変化を指します。ちょうど日本の明治維新もこの時期にあたり、伝統的な社会から自由な時代へと移行する動きは、世界的な潮流であったと言えるでしょう。
「一切の価値の転換」とは、もともとニーチェの言葉です。彼は、キリスト教道徳に支配されてきた既存の価値観が転換し、新しい価値が生まれる状況をこう呼びました。ニーチェは、従来のキリスト教道徳の根底には、弱者の怨恨や嫉妬といった「ルサンチマン」があると指摘しました。弱さ、犠牲、同情、謙虚といった価値が「善」とされ、強さ、自己主張、力、高貴さなどが「悪」とされる。この善悪の背景にルサンチマンを見出したニーチェの思想は、当時のヨーロッパ社会に大きな衝撃を与えました。
では、ニーチェが推奨した新しい価値の原理とは何だったのでしょうか。それが「力への意志」です。これは単なる権力欲ではなく、自分を乗り越え、新しい自己を創造していく力です。伝統的な価値が崩壊し、すべてが相対化される時代、絶対的な価値が失われた時代は、ニヒリズムに陥りやすくなります。「どんな価値でもいい」というニヒリスティックな思考です。そのような時代を力強く生き抜くためには、自分自身で価値を創造していく力、すなわちニヒリズムを乗り越える「超人」となることが求められるとニーチェは説きました。それは、キリスト教道徳によって抑えつけられてきた、我々が本来持つ生命の根本衝動に立ち返るべきだという主張でもあります。岡本太郎の縄文土器への憧れにも通じるような、生命の衝動を既存の価値が束縛しているという問題意識がそこにはありました。
「自由の時代」から「愛の時代」へ
シュタイナーもまた、伝統的な時代から我々は自由になるべきであり、自分の生命の衝動に従って生きるべきだと考えました。これが「第一の一切の価値の転換」であり、「自由の時代」の到来です。
しかしシュタイナーによれば、人間は自由の時代に留まってはなりません。自我がさらに霊的に成長し、第二の「一切の価値の転換」の時代を迎えなければならないのです。これが20世紀に起こるはずだった転換であり、自由の時代から第三の段階の「愛の時代」への移行を指します。
シュタイナーの言う「愛」とは、あらゆる存在が根源的に、唯一無二のかけがえのない存在として認められるべきだという思想です。自由の時代は、過去の伝統から自由になったという点では進歩でしたが、そこではまだ存在の優劣が残っていました。競争によって優れた者が勝ち残るという論理は、自由と資本主義が結びつきやすいことを示しています。
その先にある「愛の時代」とは、それぞれの存在が比較不可能で唯一無二であることを互いに認め合う社会です。その衝動こそが「愛の衝動」なのです。
この「自由」の時代から「愛」の時代へどうすれば社会は移行できるのか。これがシュタイナーの人智学運動の根本的な問いでした。シュタイナーは、人間は本来、他者を唯一無二の存在として認める「キリスト衝動」を持っていると考えました。彼によれば、キリストが磔刑に処せられ復活した「ゴルゴタの秘儀」の際にキリストの霊的な力が地球に流入し、それによって人類の霊的進化が促進されるようになりました。キリストの磔刑を境に、人間の自我は覚醒し、霊的な成長を遂げるに従って「自由の意志」と「愛の能力」を発達させることができた、というのが彼の基本的な見取り図です。
この考え方に立てば、我々はキリスト衝動によって霊的に成長し、「自由の時代」までは到達できたものの、「愛の時代」へとさらに成長するためにはどうすればよいのか、という問いが立ち現れます。この問いこそが、シュタイナーの基本的な問題意識であり、人智学運動の目標でした。愛の時代を迎えるために、キリスト衝動を現代において理解し、その力を実践的に活かす活動が人智学運動なのです。思想に留まらず、バイオダイナミック農業、医学、オイリュトミーといった芸術活動など、シュタイナーが様々な社会的実践を行ったのはこのためです。
二つの社会論:「社会の中の私」と「私の中の社会」
私たちは今、「自由の時代」から「愛の時代」へと転換する地点に立っています。このような時代状況の中で、どのような社会を構想すべきか。高橋先生は、社会論の出発点には二つの対照的な考え方があると述べます。
一つは「社会の中の私」という捉え方です。これは、既存の社会の中に生まれ、学校教育などを通じてその社会に参入していくという考え方です。この場合、教育は子どもたちに既存の社会の文化やリテラシーを学ばせ、社会に適応させることを目的とします。いかにうまく社会に適応するかが問題となり、適応先である社会自体への批判的な視点は持ちにくくなります。
もう一つは、その真逆である「私の中の社会」という考え方です。これは、まず自分の中にある「社会意志」、すなわち「自分自身がこの世でどうありたいか」という意志から出発します。一人ひとりが持つ生命の衝動に近い、こうありたいという存在のあり方から社会を構想していくため、必然的に既存の社会と衝突することになります。そのぶつかり合いの中で、私たちの社会意志は成熟していくのです。
社会を「適応」の問題として考えるのか、それとも個々の「社会意志」から考えるのか。どちらの立場をとるかで、全く異なる社会論が生まれます。シュタイナーが選んだのは、もちろん後者の「私の中の社会」から社会を考えていくという道でした。
この観点は、現代社会をどう評価するかという問題にも関連します。シュタイナーによれば、現代社会は営利主義と技術に支配されています。特に第一次世界大戦直後という状況もあり、その社会観は肯定的というより、むしろ否定的でした。ヨーロッパ文明が営利と技術によって破壊されたという反省の上に、彼の社会論は成り立っています。
であるならば、既存の社会を前提とし、それにいかに参入するかという問題設定自体を見直さなければなりません。既存の社会に適応することは、問題の根本的な解決にはならないのです。
これからの社会をどう考えるか
私たちが社会論を考えるとき、その根本には「私の中の社会意志は何を望んでいるのか」という問いがあるべきです。それは、一人ひとりが自らの胸に問いかけるべき問いであり、すぐには答えが出ないかもしれません。今の社会でうまくいっている人ほど、そうした問いは生まれにくいでしょうし、逆に違和感を抱いている人の方が、自らの社会意志に気づきやすいかもしれません。いずれにせよ、まずその問いを立ててみることが重要です。
ここで、社会を理解するもう一つの視点として、古くからある「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」という議論に触れておきましょう。
「ゲマインシャフト」(共同体)とは、感情や習慣で結びついた共同体のことです。個人、家族、民族、そして人類といった、いわば運命を共有する社会です。
それに対し、近代以降に現れたのが「ゲゼルシャフト」(利益社会)です。市民、法人、国家、国際組織などがこれにあたります。これらは感情ではなく、目的合理性や利益によって結びついています。会社組織のように目的を共有する団体では、ややもすれば目的のために個人が手段化され、犠牲になるという問題が生じます。
私たちは現代、主にこのゲゼルシャフト的な社会、つまり市民・法人・国家という共同体の中で生活しています。会社や学校に通い、国家の中で活動する以上、そこでは悪戦苦闘しなければなりません。こうした状況の中で、私たちはこれからの未来の社会をどう考えていくべきか。それが、この本の主なテーマとなっています。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
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