『ゲーテとの対話』(中編)
エッカーマン(著)
今回は、エッカーマン(ヨハン・ペーター・エッカーマン、1792–1854)がゲーテ晩年の言葉を書きとめた『ゲーテとの対話』(1836–48年)を読み解く連続講義の第2回です。ゲーテという人物そのものを知るために、その生涯の前半——フランクフルトでの誕生から、出世作『若きウェルテルの悩み』(1774年)まで——をたどります。
エッカーマン(著)『ゲーテとの対話』
岩波書店 2013年出版
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749–1832)は、18世紀半ばに生まれ、ヨーロッパの激動の時代を82歳まで生き抜いた人です。いわば「最後の近世人」であり、また「最初の近代の批判者」でもある——近世の政治秩序や社会から近代へと移り変わる、ちょうどその狭間に立った人でした。
その業績は驚くほど多岐にわたります。私たちの講義でもたびたび取り上げる『色彩論』(1810年)は、色と光の性質を独自の方法で探究した大著ですが、これは文学から出発したゲーテが自然科学の研究を重ね、その集大成として結実させたものです。大学では法学を学び、のちには政治の実務にも携わりました。一人の人間がこれほど多様な領域を修めた例は、現代ではまず考えられません。ゲーテはまさに「普遍的教養」を体現した人だったのです。
ゲーテ自身、自分の生きた時代について、『ゲーテとの対話』の中で次のように語っています(1824年2月25日)。
私は大いに得をした。最大の世界史的事件が、まるで日程にのぼるかのように次々と起こり、それが長い生涯を通じて続く時代に生まれ合わせたからだ。おかげで、七年戦争をはじめ、アメリカのイギリスからの独立も、さらにはフランス革命も、最後にはナポレオンの時代の全部を、あの英雄の没落とそれに続く諸事件に至るまで、一切をこの目で見た生き証人なのだからね。
七年戦争(1756–63年。プロイセンとオーストリアを軸に、ヨーロッパの列強が入り乱れて戦った戦争です)に始まり、アメリカの独立(1776年に独立宣言)、フランス革命(1789年)、ナポレオン戦争、そして戦後のウィーン会議(1814–15年。ナポレオン後のヨーロッパ秩序を定め直した国際会議)に始まる秩序の再編まで。ゲーテはその一部始終を見届けた「生き証人」でした。当時の82歳は、今の感覚でいえば100歳以上の長寿と言ってよいかもしれません。ゲーテは、ヨーロッパの歴史そのものとともに生きた人だったのです。
1 フランクフルトの神童――裕福な生家と六か国語の英才教育
ゲーテは1749年、フランクフルトに生まれました。当時のフランクフルトは、神聖ローマ帝国——中世に成立し、1806年までドイツを中心に数多くの領邦や都市を緩やかに束ねていた国家体制です——に属する自由都市、すなわち領主ではなく皇帝に直属して自治を認められた都市でした。人口はおよそ3万5000人だったといわれます。
生家は、この町でも指折りの裕福な家柄でした。父ヨハン・カスパー・ゲーテ(1710–1782)は法学博士で、皇帝から与えられる「皇帝顧問官」の称号を持つ人物。母カタリーナ・エリーザベト(1731–1808)の父、つまりゲーテの母方の祖父は、フランクフルトの市長に相当する最高職(市統領〈シュタットシュルトハイス〉)を務めた人でした。名望も財力も兼ね備えた家に、ゲーテは長子として生まれたのです。
きょうだいについても触れておきましょう。ゲーテには、1歳下の妹コルネリア(1750–1777)のほかに4人の弟妹がいましたが、その4人はいずれも幼くして世を去りました。当時のドイツでは、子どもが8歳まで生き延びられる確率は半分ほどだったといわれます。その大きな要因のひとつが、不治の病とされた天然痘の猛威です。ゲーテの弟妹たちの命を奪ったのも天然痘だったとされます。天然痘については、のちにイギリスの医学者エドワード・ジェンナー(1749–1823)が1796年に種痘(牛痘を利用した予防接種)を開発し、19世紀にその普及が進むにつれて、ようやく乳幼児の死亡は減っていきます。しかしゲーテの子ども時代には、幼い命が次々と失われるのが、まだ当たり前の光景でした。このことは、ゲーテの生きた時代を考えるうえで、心に留めておいてよいでしょう。
そのような時代にあって、ゲーテは恵まれた環境で徹底した英才教育を受けます。学校にはほとんど通わず、父と家庭教師たちによる自宅での個人教育で育てられました。当時の上流階級では、それが標準的な教育のかたちだったのです。とりわけ力を入れられたのが語学でした。7歳でラテン語とギリシャ語(1756年)、9歳でフランス語(1758年)、11歳でイタリア語(1760年)、そして12歳で英語とヘブライ語(1762年)。つまり少年のうちに六か国語を学んだことになります。文字どおり、語学の英才教育です。
そんな神童ゲーテには、ませた一面もありました。13歳から14歳のころ、今でいえば中学生の年頃に、年上の娘グレートヒェンとの初恋を経験するのです。これは自伝『詩と真実』(1811–33年)で語られるエピソードで、恋そのものは実りませんでしたが、この初恋の相手が、のちにゲーテが生涯をかけて書き続けた戯曲『ファウスト』第一部(1808年)のヒロイン、グレートヒェンの原型になったともいわれています。
2 二つの大学――ライプツィヒの蹉跌とシュトラースブルクでの覚醒
16歳になった1765年、ゲーテはライプツィヒ大学に進学します。1409年創設のライプツィヒ大学は、ドイツ最古のハイデルベルク大学(1386年創設)、ケルン大学(1388年)、エアフルト大学(1392年)に続く、ドイツで4番目に古い大学に数えられる名門です(古さの数え方には諸説あります)。当時の学生数は700人ほどだったといわれますから、今日の感覚では、大学全体でひとつの学部にも満たない規模でした。ここでゲーテは3年間、法学を学びます。父が法律家だったこともあり、まずは父の敷いた路線をたどったわけです。
ライプツィヒという土地柄も、ゲーテに大きな影響を与えました。生まれ故郷のフランクフルトと比べても、ライプツィヒは「小パリ」と呼ばれるほどフランス風の、洗練された商業都市だったのです。
そして、ここでの学生生活の羽振りは桁外れでした。伝えられるところでは、当時のライプツィヒの学生の生活費は、奨学金で学ぶ学生で年123ターラー、裕福な学生でも年378ターラーほど。ところがゲーテは、実家から年800ターラーもの仕送りを受けていたといいます。ターラーは当時のドイツで広く流通した銀貨です。仮に1ターラーを現代の2万円ほどと見立てれば——あくまで感覚をつかむための目安の換算ですが——奨学生の生活費が年約250万円、裕福な学生で750万円あまり、ゲーテの仕送りは年1600万円、月に100万円を超える計算になります。まさに破格の金持ち学生です。実際、ゲーテは遊びにも惜しみなく金を使う学生生活を送りました。1766年ごろからは、アンナ・カタリーナ(ケートヒェン)・シェーンコプフ(1746–1810)という女性との恋も経験しますが、この恋も実りません。やがて健康まで損なったゲーテは、1768年、学業なかばでライプツィヒを去り、故郷フランクフルトに戻ることを余儀なくされました。
約1年半の療養を経た1770年の春、ゲーテは再起を期して、今度はシュトラースブルク(現在のフランス・ストラスブール)の大学に移ります。20歳、まもなく21歳になる年のことでした。目的は、中断していた法学の学位を取得することです。シュトラースブルク大学の起源は1538年に創設された学校にさかのぼり(正式に大学へ昇格したのは1621年)、ゲーテの時代にはすでに230年余りの歴史を持っていました。学生数は250人ほどの小さな大学だったといわれます。
シュトラースブルクは当時、フランス領でした。しかし言葉と文化の上ではドイツ語圏に属する町です。ゲーテはここで、本場のフランス文化と正面から出会うことになります。ところが皮肉なことに、この出会いこそが、ゲーテの目をむしろドイツ文化へと向けさせるのです。ゲーテは『詩と真実』の中で、フランス文学に背を向けた理由をこう述べています。
フランス文学は、それ自体のうちに、努力する青年を魅了するよりはむしろ反感を抱かせるにちがいない、ある種の性質をもっていた。すなわち、フランス文学は老成して高貴であった。そしてこの二つによっては、快楽と自由を求める青年たちを喜ばせることはできないのだ。
フランス文化は啓蒙主義的——啓蒙主義とは、人間の理性による進歩を重んじる17〜18世紀ヨーロッパの思想潮流です——で、合理的で、たしかに洗練されていました。しかしゲーテに言わせれば、その老成した洗練は、若者の内にたぎる生命のエネルギーを満たしてはくれない。それを満たすものは、むしろドイツの文化の中にこそあるのではないか。当時のドイツはフランスに比べれば文化的な後進国で、フランスへの強いコンプレックスもありました。けれどもゲーテは、単なる劣等感に沈むのではなく、ドイツ文化の中に、青年の心を奮い立たせるものを積極的に見いだしていきます。「ドイツ的なるもの」への意識が、ここで芽生えてくるのです。
この覚醒に決定的な役割を果たしたのが、思想家ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744–1803)との出会いでした。ヘルダーはゲーテより5歳年上の、ほぼ同世代の先輩です。1770年の秋、たまたまシュトラースブルクに滞在していたヘルダーと知り合ったことが、ゲーテの転機になります。
当時のフランス啓蒙主義の考え方では、理性に基づく文化や芸術は、時代や場所を超えた普遍的な妥当性を持つとされていました。フランスの文化でありながら、世界のどこでも通用する普遍性を備えている、というわけです。これに対してヘルダーは、こう考えます。そうではない。文化や芸術は、それぞれの民族が固有に持つ言語、歴史、風土に根ざしている。つまり文化・芸術とは、それぞれの民族に固有の精神の表現なのであって、民族を超えて普遍的に妥当するものではないのだ、と。
ゲーテはこの思想に深く感化されます。フランス文化に対して抱いていた漠然とした違和感の正体を、ヘルダーが解き明かしてくれたからです。文化が民族精神の表現であるなら、ドイツ人であるゲーテがフランス文化ではなくドイツ文化に共感するのは、当然のこと。そしてドイツ文化がこれから進むべき道も、フランスという他文化の模倣ではなく、自分たち自身の民族的・歴史的な伝統の中に源泉を求めることにこそある——ゲーテはそう気づいていきました。今から見れば当たり前の発想に思えるかもしれません。しかし、フランス文化が圧倒的な威光を放っていた当時のヨーロッパで、自分たちの文化の重要性に目覚めたことの意味は、きわめて大きかったのです。
こうしてゲーテは、あらためてドイツの文化に目を向けるようになります。この町にそびえるシュトラースブルク大聖堂——中世ヨーロッパで発達した、天へと伸びる尖塔を特徴とするゴシック建築の大聖堂です——の美しさにも心を打たれ、ゲーテはしだいに「ドイツ的な美」に目覚めていきました。
なお、ゲーテはこのシュトラースブルク大学で、望んでいた法学博士の学位を取ることはできませんでした。提出した学位論文が却下されてしまったのです。それでも、討論形式の試問を経て「リツェンティアート」という学位(博士に準ずるもので、これによって弁護士として活動できました)を取得し、1771年、故郷フランクフルトに帰還します。
3 疾風怒濤の二作――『ゲッツ』と『ウェルテル』が示した新旧二つの人間像
フランクフルトに戻ったゲーテは、弁護士として働きながら、その後ワイマール(ドイツ中部の小さな宮廷都市です)に移り住むまでの約4年間をこの町で過ごします。そしてこの4年のあいだに、二つの文学作品を世に送り出しました。戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(1773年)と、小説『若きウェルテルの悩み』(1774年)です。この二作こそが、「疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)」——理性偏重の啓蒙主義に反発し、感情の解放を掲げた1770年代ドイツの新しい文学運動です——の口火を切ることになります。
まず『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』です。1773年、23歳のゲーテが匿名で出版したこの戯曲は、16世紀初頭のドイツを舞台に、実在した騎士ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン(1480頃–1562)を主人公としています。物語の背景にあるのは、騎士階級がしだいに没落し、ドイツ古来の慣習に根ざしたゲルマン法に代わって、古代ローマに由来する体系的なローマ法が浸透していく時代です。主人公のゲッツは皇帝直属の騎士(帝国騎士)で、ゲルマン法の世界で認められていた「フェーデ」——公権力による戦争ではなく、私的な実力行使によって争いを解決する権利、いわば「私戦」の権利です——を行使して、自らの信じる正義と自由を貫こうとします。しかし、そうした生き方はもはや時代遅れでした。ゲッツは新しい時代の力に敗れ、「偽りの時代がやってくる」と言い残し、最後は「自由、自由」と叫びながら息を引き取ります。
このゲッツの姿——騎士階級の没落と、それとともに失われていく中世的な価値観——は、同時代の青年たちの心を強くとらえました。18世紀のドイツでは合理主義がすでに深く浸透し、時代の閉塞感が漂いはじめていました。だからこそ、名誉と自由のために戦う旧き騎士の生きざまが、若者の胸を打ったのです。
翌1774年、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』を発表します。手紙のやりとりの形式で物語が進む「書簡体小説」です。この作品は、ヨーロッパ中に「ウェルテル現象」とも呼ぶべき熱狂を巻き起こすほどの衝撃を与えました。有名な作品ですからご存じの方も多いと思いますが、あらすじはこうです。感受性豊かな青年ウェルテルが、婚約者のいる女性シャルロッテに恋をする。その想いは報われず、ウェルテルの情熱は社会の因習との狭間で行き場を失い、苦悩の果てに、彼は自ら命を絶つ——。
同じ時期に書かれた『ゲッツ』と『ウェルテル』ですが、二人の主人公はきわめて対照的です。ゲッツが、行動の人であり、旧い時代を体現する「近世最後の英雄」だとすれば、ウェルテルは、これから始まる時代を先取りした「新時代の人間」の代表です。では、新時代の人間とは何でしょうか。それは、騎士道やゲルマン法の世界のように名誉を重んじて外の世界で行動することよりも、自分の内面、自分の心情の純粋さと、その表現にこそ重きを置く人間のことです。ゲッツとの対比によって、この新しい人間像の輪郭が、くっきりと浮かび上がってきます。
そして、自分の内面世界を何より大切にするということは、裏を返せば、啓蒙的で合理的な、どこか冷たさを感じさせる社会が到来した、ということでもあります。そういう社会をつくり変えて自分の思いを遂げるというよりも、その中で自分の内面性をいかに守り抜くかにエネルギーを注ぐ。ウェルテルは、そうした近代人の先駆けとして登場するのです。自分の心情を守ることが、近代を生きる人間にとって決定的に重要な課題になっていく、ということです。
では、ゲーテ自身はウェルテルをどう見ていたのでしょうか。ゲーテは、ウェルテルが死をもって自らの精神の純粋さを守り抜いたことに、当然、深い共感を寄せています。しかしその一方で、自分の内面が世界のすべてを覆い尽くしていくかのような、無制限の情熱の解放を、手放しで礼賛していたわけでもありません。むしろ『ウェルテル』という作品は、そうした情熱の解放が行き着く悲劇的で破滅的な結末をも、はっきりと描いています。自分の感情だけを唯一の規範として生きる心情の倫理が、どのような帰結を招きうるか。ゲーテはそれを同時に見据えていたのです。自分の心情に忠実に生きようとする近代人の発想と、その発想がはらむ危うさ。この二つをどう折り合わせていくのかという問いは、ゲーテの時代に始まり、その後の近代を生きる人間にずっと問われ続けることになります。ですからゲーテは、ウェルテルに深く共感しながらも、ウェルテル的な生き方をそのまま肯定してはいなかった、と言えるでしょう。
こうしてゲーテは、ゲッツに代表される旧世界の秩序の崩壊と、ウェルテルが体現する自己の内面の解放という、時代の二つの大きな変化を、立て続けに作品として描き出しました。のちにゲーテは『ゲーテとの対話』の中で、『ウェルテル』についてこう語っています(1824年1月2日)。
誰もが一生のうちに一度は、『ウェルテル』は自分のために書かれたのだと思える時期を持たないとしたら、それは残念なことだ。
人は誰しも、青春の一時期に、自分の心情と正面から向き合う「ウェルテルの季節」を通過するものだ。それを持たない人生のほうが、むしろ不幸なのだ——ゲーテはそう言うのです。ちなみに、あのナポレオン・ボナパルト(1769–1821)は、この小説を7回も読んだと自ら語ったと伝えられるほどのゲーテの愛読者で、1808年にエアフルトでゲーテと会見した際にも『ウェルテル』を話題にしています。『若きウェルテルの悩み』は、それほどまでに全ヨーロッパを揺るがすセンセーションだったのです。
おわりに
今回は、ゲーテの生涯の前半を駆け足でたどりました。神聖ローマ帝国の自由都市フランクフルトの裕福な名家に生まれ、六か国語に及ぶ語学の英才教育を受けた少年時代。ライプツィヒ大学での挫折を経て、シュトラースブルクでヘルダーと出会い、「文化とは民族固有の精神の表現である」という思想に触れて「ドイツ的なるもの」に目覚めた青年時代。そして、旧世界の崩壊を描く『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』と、内面の解放を描く『若きウェルテルの悩み』の二作によって、疾風怒濤の文学運動の先頭に立つまで。世界史の「生き証人」ゲーテの前半生は、そのまま、近世から近代への移行期のヨーロッパの縮図でもありました。
旧い価値の秩序が崩れ、合理化の進む社会の中で、人は自分の内面とどう向き合い、どう守り、そしてその情熱の暴走とどう折り合いをつけていくのか。ゲーテが二つの作品に刻み込んだこの問いは、決して18世紀だけのものではありません。誰もが一生に一度は「ウェルテルの季節」を持つべきだ、というゲーテの言葉は、心情と向き合う時間をくぐり抜けることの大切さを、今日の私たちにも語りかけています。皆さんにとっての「ウェルテルの季節」は、いつだったでしょうか。それとも、これから訪れるのでしょうか。
ゲーテはこのあと、1775年にワイマールへ移り住み、人生の後半へと歩み出します。その後半生については、次回たどることにしましょう。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
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