『青い花』(後編)
ノヴァーリス(著)
皆さん、こんにちは。アトリエシムラの志村昌司です。
「今週の読書」、今回は引き続き、18世紀末のドイツ初期ロマン主義を代表する詩人、ノヴァーリスの最高傑作『青い花(原題:ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン)』(Heinrich von Ofterdingen, 1802)、後編についてお話しします。
* ハインリヒ・フォン・オフターディンゲンはヴァルトブルクの歌合戦伝説に登場する詩⼈の名前である。
ノヴァーリス(著)『青い花』
版元:岩波書店 1989年出版
はじめに ― ロマン主義における内面の探求
前回・前々回に引き続き『青い花』について論じますが、ノヴァーリス(1772-1801)はこの作品を通して、人間の精神の内面の探求というテーマを描き出しました。
ここで言う「内面の探求」とは、単に自分の精神を自己分析することではありません。自分の内面を通して、宇宙の根源的な真理へと到達すること――それがノヴァーリスの言う「内面の探求」です。したがって、近代の精神分析学とは出発点からして考え方を異にしています。
このようなノヴァーリスの立場を理解するためには、その対立軸である啓蒙主義との対比が役立ちます。啓蒙主義とは、理性の光によって外界を分析し、客観的世界の法則性を明らかにしようとする立場であり、その最も優れた成果が現代のサイエンスにほかなりません。物理学や数学の法則によって外界を解明していくわけです。これに対してノヴァーリスをはじめとするロマン派は、宇宙の真理に至る道を、まったく逆の方向に見出しました。すなわち、自分の内面の深淵にこそ宇宙の真理と結びつく「秘密の道」が存在する、と考えたのです。
このように整理してみますと、宇宙の真理に至る方向性は二つあることになります。啓蒙主義に立てば外界を理性の光で分析していく方向となり、ロマン主義に立てば自分の内面を深めていく方向となる。両者は、真理への迫り方そのものが異なっているわけです。
そこで今回は、三つの観点から考えてみたいと思います。第一に、内面に通じる「秘密の道」とは何か。第二に、それが『青い花』においてどのように表現されているか。そして第三に、「我」と「汝」を合一させる力としての「愛」について論じます。
1. 「内部へと通じる秘密の道」:内面世界の形而上学
ノヴァーリスの内面に関する思索は、『青い花』だけでなく、断章のなかにも数多く散りばめられています。とりわけ重要なのは、宇宙の真理が外界にあるのか、それとも内面世界にあるのか――言い換えれば、真の実在がどこに存するのかという問題です。この問いに対してノヴァーリスは、内面にこそ真の実在が存在する、と明確に述べています。
たとえば断章には、次の一節があります。
われわれの想像力(ファンタジー)は未来の世界を高いところにも低いところにも、あるいは輪廻の中にも置くことができる。われわれは万有(万物)を抜けて旅することをも夢見る。しかし万有(この世に存在するすべてのもの)はわれわれの中にあるのではないか。われわれの霊の深みをわれわれは知らない。内部へと秘密の道が通じている。…外界は影の国である。外界はその影を光の国に投げかけているので、今はもちろんわれわれには内部がこのように暗く寂しく混沌としてみえるが、この暗黒が通りすぎて影の実体が押しのけられたとき、どんなにか一変して映じることだろう。(「断章」)
この一節を読み解くにあたって、まず押さえておきたいのは、ノヴァーリスがフィヒテの自我論を学んでいたという背景です。フィヒテは、自我のうちに「自我」と「非自我」とを想定し、世界を認識するとは非自我を自我へと変えていく作業であると説きました。ノヴァーリスはこのフィヒテ哲学を踏まえつつ、それを独自に発展させ、「魔術的観念論」と結びつけていきます。魔術的観念論とは、人間の五感ではなく、超感覚的認識によって世界の見えないものを感知し、認識し、表現していく――それこそが「ポエジー」であるという思想です。先の引用は、まさにこの魔術的観念論の表現にほかなりません。
「万有は我々のなかにあるのではないか」というのは、自分の内面のなかにこそ宇宙の真理に到達する秘密の道がある、という主張です。さらに彼は、未来の世界を高いところにも低いところにも輪廻のなかにも置くことができる、と言います。これは直線的・客観的な時間を語っているのではありません。今この瞬間に、あらゆる可能性がカオスとして含まれているということを意味しているのです。
つまり、我々の進む道は直線的な過去の延長線上にあるのではなく、精神の能動的な選択によって、未来にも過去にも置くことができる。客観的時間ではなく主観的時間のうちにこそ、無限の選択が開かれている。「人間はどの瞬間にも超感覚的存在(精神)になり得る」とノヴァーリスが述べるとき、それは精神の無限の創造力を指しています。そして、その可能性の源泉である「われわれの霊の深み」がいかに深いかを、我々はまだ知らないのです。
ここで「外界は影の国である」という言葉が出てきますが、これはプラトンの「洞窟の比喩」を想起させます。洞窟の比喩では、人間は生まれながら手足を縛られ、首も固定されて、洞窟の奥の壁面しか見ることができません。背後にあるかがり火に照らされた事物の影だけを、我々は実在と思い込んで眺めている――これがプラトンの有名な比喩です。プラトンが言わんとしたのは、我々が見ているものは現象世界にすぎず、その本質たるイデアの世界を我々は見ていない、ということでした。
ノヴァーリスもまた、我々が日常的に経験する世界は現象世界にすぎないと考えます。ただし、そのイデアがどこにあるのかという点で、プラトンと決定的に袂を分かちます。ノヴァーリスにとって、真の実在は内面世界にある。「光の国」と呼ばれるその場所へと至る秘密の道が、自分の内面に通じているのです。
外部世界にイデアがあると考えるのか、内面世界にイデアがあると考えるのか――ここがロマン主義の鍵となる分岐点です。そしてこの分岐点から導かれるノヴァーリスのロマン主義的課題は、精神の能動性に集約されます。我々は外部からの感覚を受動的に認識するばかりではなく、能動的に世界を認識し、想像することができる。「能動的精神」は、ロマン主義の核となるキーワードの一つです。我々はこの能動的精神によって自らの内面を貫く秘密の道を辿り、宇宙の真理へと到達する――これがノヴァーリスの根本的な主張なのです。
2.『青い花』における理念の具現化:ハインリヒの巡礼と思索
それでは、こうした思想は『青い花』のテクストにおいて、どのように具体化されているのでしょうか。前回述べたように、第一部では主人公ハインリヒが、さまざまな精神的経験を通して自分の内面を目覚めさせていく姿が描かれます。
ところが、第二部に入ると様相が一変します。恋人マティルデを亡くしたハインリヒが、孤独な巡礼者として絶望の淵を歩む姿が描かれるのです。外部世界においては愛する者を喪い、絶望の只中にある――いわば、外面の影が自分の内面に色濃く落ちた状態と言ってよいでしょう。
しかし注目すべきは、まさにこうした孤独と絶望のなかにこそ、自分の内面世界に気づくきっかけ、転換点があるという点です。この世における幸福のうちにあるとき、人はかえって内面世界に気づきにくいものです。むしろ絶体絶命の境地に立ったとき、初めて内面が開かれる。志村ふくみもよく語ることですが、絶体絶命の境地に立ったとき初めて湧き出てきた表現こそが「秋霞」という作品であった、と言います。ハインリヒもまさにこの構造のなかにあります。アウグスブルクの丘をさまよっているとき、亡くなったはずのマティルデの声を聞き、神秘的なビジョンを体験するのです。テクストにはこうあります。
「マティルデの声だ」と巡礼は言い、ひざまずいて祈りをささげようとした。その時木の間から、一条の光線がさっと巡礼の目にさしかかり、その光のかなたに、なんとも言葉で形容できず、彩色して精緻に模倣することもかなわぬ、壮麗な小世界がかいまみられた。
マティルデを喪い絶望していたそのとき、一筋の光が差し掛かった。これこそが「内面からの光」です。外面的な幸福の世界を失う苦しみを経て、初めて自分の内面世界の輝きを感じることができたのです。
このことから見えてくるのは、次のようなことです。外部世界の幸福が剥奪されたとき、人は自己の精神の深層に向かわざるを得ない。そして、その深層において、宇宙の真理に結びつく道を発見する。ハインリヒは、外的経験から内的真実へと移行したのです。これこそノヴァーリスが描こうとした主題であり、同時に、読者一人ひとりに対する呼びかけでもありました。自らの内面を通って宇宙の真理に出会うこと――それがロマン主義の根本動機なのです。
3.融合の力としての「愛」:「我」と「汝」の合一
ここで一度ノヴァーリスから離れて、シュタイナーの議論に移りたいと思います。融合する力としての愛、というテーマを掘り下げるためです。
シュタイナーには内面の旅についての著作がいくつもありますが、彼が出発点とする洞察は、人間の内面が重層的な構造をなしているという点にあります。すなわち、日常的な意識世界と、その背後にある無意識の領域です。意識と無意識の区分自体は、もちろんフロイトやユングなど近代の精神分析学でも語られてきました。シュタイナーが提起した問題は、しかし、もう一歩踏み込んだものでした。普段の意識世界からその奥にある無意識の領域――ノヴァーリスの言う「秘密の道」――へと、いかにして辿り着くのか、という方法論の問題です。
いくら自分の内面を探っても、意識世界を超えて無意識の領域に至ることは容易ではありません。シュタイナーが指摘するのは、人間の意識の底には鏡のようなものが張られていて、我々はそこで跳ね返されてしまうという事態です。彼はこれを「記憶の鏡」と呼びます。自分の過去の経験や記憶ばかりが内面を辿って浮かび上がってきて、その奥にある無意識の領域までは届かない――これが我々が直面する第一の壁です。
ではいかにしてこの記憶の鏡を破り、自分の本当に深い内面に辿り着くのか。シュタイナーは、この経験を「破鏡(はきょう)」と呼びました。
破鏡経験は、一筋縄ではいきません。意図的に破ろうとしても、なかなか破ることはできない。ハインリヒの場合は、マティルデの死による孤独と絶望のなかで、ある種の破鏡経験が起こったのかもしれません。あるいは我々のなかにも、自らの精神の底を破って深層に入り得た人がいるかもしれません。
ではその破鏡を経た後に、人は何と出会うのでしょうか。シュタイナーによれば、それはエネルギーの塊のようなカオス――精神のカオスです。彼の用語で言うエーテル体と出会うのです。そしてそこで問われるのは、自分の精神のカオスに耐えられるかどうかという、ある意味で苛酷な問いです。破鏡経験の後で精神がどうなっていくのかは確かに大きな問題ですが、いずれにせよ、自分のエーテル体に出会うことこそが、内面の旅のスタートラインに立つことなのです。
そのとき人は、「自分のなかの知らない自分」と出会うことになります。普段「自分」と思っているものは、精神のうちの意識的な部分にすぎません。無意識の部分は、自分でありながら自分の知らない、いわば他人なのです。先のフィヒテの自我論で言えば、自我に対する非自我が、この無意識の部分に相当するわけです。シュタイナーは、無意識の部分との出会いを、自らの精神のうちに住まう霊的存在との出会いであるとも述べています。
通常、自我と非自我は対立します。しかし破鏡経験を経て自分の無意識と出会ったとき、自分のなかで「自分ではない」と感じられるもの、「他人」と思えるものと、いわゆる普通の自分とがいかに融合していくのか――ここに「融合」という新たな課題が立ち上がります。
つまり、人はまず自分自身と融合しなければならない、という問題があるのです。シュタイナーは、この無意識の世界こそ、嫌がるべき「非自我」ではなく、愛すべき「汝」であると説きました。そして、意識的な「我」と無意識的な「汝」とが融合するときに働く根源的な力こそが、「愛」なのです。
日本語の「愛」では語感がやや異なるかもしれませんが、ここで言う愛とは、融合しようとする根源的なエネルギーです。非自我である無意識の自分と、自我である意識的な領域とを融合させていくこの力を、愛と呼ぶことができるのではないでしょうか。こうして我々は意識のうちに非自我を融合させ、内面を深めていき、やがては「宇宙意志」のようなものに出会っていく――これがシュタイナーの構想です。
このように考えてくると、精神の内面の旅をするうえで決定的に重要なのは、自分のなかで出会うさまざまな他人――自分ではないと思える他人――といかに融合していくかである、ということが見えてきます。それこそが内面の旅を成就させる鍵となるのです。
ところで、この「融合」の対極にあるのは何でしょうか。それは「分析」あるいは「支配」です。現代科学は対象を客観的に分析することを旨とし、さらに科学的発見を人間が利用する場面では、対象を支配する態度が現れます。対象を分析し、支配する――これは融合体験の真逆の経験であり、「分析的知性」と呼ばれるものです。
これに対して、まず分析を一旦置き、対象を全面的に受け入れる態度があります。高橋巌氏がよく述べておられることですが、対象をまず受け入れる、あるいは帰依していくことによって、対象と自分との境目が消え、両者が融合する。それこそが対象を本当に理解することにつながるのです。
我々が目の前の対象を理解しようとするとき、しばしば「評論家的態度」が現れます。自分を対象から切り離し、客観的に分析しようとする態度です。しかしシュタイナー的な立場からすれば、これは決して対象を理解したことにはなりません。むしろ評論家的態度を一旦やめ、対象ととことん融合しようとする態度こそが、対象の真の理解につながるのです。
これはノヴァーリスを理解するうえでも極めて重要な点です。評論家的態度を取るのか、ひたすら帰依していくのか――そのスタンスによって、見えてくる世界はまったく異なります。そしてその根源的衝動こそが、「愛」なのです。
このような融合の思想――「我」と「汝」とを融合させていく思想――は、しかしながら、現代社会にあってはむしろ稀になっています。「私は私、あなたはあなた」と切り分けるのが常であり、外界に対しては不安、警戒、反感を抱きがちです。近代精神は、常に何かしらの反感を抱えているところがあります。
そうした反感や不安、警戒に対して、融合の精神は一種の処方箋となります。もちろんすべてを融合させればよいというわけではありませんが、ある種の中道的な思想を導く重要な発想となるはずです。近代精神が外界に対して抱く不安や警戒を、共感や尊敬、そして融合へといかに転換していけるか――これはドイツ・ロマン派の問題を離れても、極めて現代的な課題と言えるでしょう。
4. 世界をロマン化することの現代的意義
最後に、「世界をロマン化する」というノヴァーリスのテーゼの現代的意義について考えてみたいと思います。ノヴァーリスの思想は二百年以上前のものですが、現代の作家や思想家にも大きな影響を与え続けています。
ここで取り上げたいのは、志村ふくみが随筆集『母なる色』のなかで、ノヴァーリスについて比較的長く言及している箇所です。志村ふくみはまず、ノヴァーリスの次の言葉を引いています。
「『世界は浪慢化されねばならない。そうすれば、人は根源的な感覚を再発見するであろう。浪慢化するというのは、質を高めるということ以外何ものでもない。』
そしてこのノヴァーリスの言葉を受けて、志村ふくみはこう続けます。
浪慢化などといえば過ぎ去った時代の言葉のように思われるかもしれないが、私はこの言葉に出会った時、今まで出会ったり、見たりしている現象が別の姿を装ってあらわれたような気がした。 それを言葉で表わすのはむつかしいが、実体をおおう床しい薫りとでもいえばよいのか、ある種の美といっても許されるだろうか。
物事の実体を皮をむくように見極めるのとは逆に、何かそこに装いあたえられているもの、針の先ほどにちらっと姿をみせる化身のようなものが感じられる。たとえば、ごく身近なことで、蘇芳という赤い染液に白い糸を漬ければ赤く染まる、そんなことは当り前のことなのに、ふとその時、全く予期しなかった水や空気や、外気の光にふれ、それらの働きがキラキラ輝いてみえたとしたら、心の中は真新しいよろこびにみたされる。
別世界が新たな装いをもって現われる。それを質を高めるというのではないだろうか。 日常我々のすぐ傍を流れ去ってゆくものの中に未知なるものの品位を見出し得るのではないだろうか。
ある方からこんな話を伺った。阿弥陀経の中に語られているのだが、浄土では青い花の上に青い光が射し、赤い花の上に赤い光が射し、白い花の上に白い光が射していると、それこそ当り前のこととして一見聞き流してしまいそうな話であるが、真如の世界といおうか、まさにー元の、言葉以前の美醜のない世界のことを語っているのではあるまいか。いみじくもノヴァーリスの青い花にも青い光が射しているだろう。」「雪の湖」『母なる色』
ここで志村ふくみは、染織に携わる立場から「世界をロマン化する」ことを語っています。その要点は、世界が異なって見えてくる、ということに尽きるでしょう。自分の内面を旅していくことは、自分の内面との出会いであるとともに、外部世界の見え方を変えていく営みでもあるのです。
「別世界が新たな装いを持って現れる、それを質を高めるということではないだろうか」――日常のなかに未知なるものの意義を見出しうる感性、これはまさにノヴァーリスの言う「詩人の役割」にほかなりません。超感覚的なものを通して、我々は世界を別の相のもとに見ることができ、世界のうちに未知なるものを見出すことができる。
詩人は、仏教的に言えば「真如」の世界を感じているのかもしれません。柳宗悦も「直観」ということを語りましたが、分析的知性では到達しえない真理の世界、秘密の道を通った先にある真の実在に、詩人は到達するのです。
その意味で、ノヴァーリスと志村ふくみの芸術は深く響き合っています。自然について言えば、自然とは「宇宙の神秘を暗示するアレゴリー」である――これは極めて大切な発想です。汎神論的に考えれば、すべての自然には神の精神が宿り、自然は宇宙の神秘を暗示する存在として立ち現れている。その暗示を我々が感覚しうるか否か――宇宙の神秘の暗示を感じ取る能力こそが、超感覚的なものなのです。
そして染織もまた、ポエジーと同じく、超感覚的なものを用いて感じ取ったものを表現する営みです。その意味で、ノヴァーリス流に言えば、染織によっても世界をロマン化することができるのです。
おわりに ― 脱色された世界に色彩を取り戻す
以上を踏まえて結びに入りますと、ノヴァーリスの「内面への道」、内面の探求という主題は、科学主義が究極に達した現代社会において、ますます切実な意味をもつことが分かります。分析的知性によって万物が脱魔術化され、原子の集合や数学的記号、法則性のうちに還元される――そうした「脱色された世界」のうちに、我々は生きているからです。
この分析的姿勢によって脱色された世界に、再び色彩と神秘の輝きを取り戻そうとする試み。これこそが、ノヴァーリスが取り組んだ内面世界の探求でした。そしてそれは過去の問題ではなく、まさに現代において、ますますアクチュアルな問題として提起され続けているのです。
志村昌司(アトリエシムラ代表)による読書案内です。
主に文化、芸術、思想に関連する書籍を取り上げます。
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